Mという友人がいる。竹馬のそれではなく長じてある奇異な動機で知り合い、付かず離れず小粋な親和感で繋がっている男だ。ともに80余歳の老骨、アジリティはかなり萎えながら気骨は未だしと競っている仲だが、ここ数年彼の気勢に陰りが見え窃かに案じている。
先日、ある会合が跳ねて外のソファに座り込んだ姿を見て心痛に堪えかねた。これは台湾独立運動とわが友Mへのオマージュだ。
Mは鹿児島の産で生粋の薩摩っぽ、稀代の酒豪でジョニ黒のラッパ飲みを披露しては下戸をあざ笑い、しこしこと原稿用紙に字を埋めていた勇姿が目に浮かぶ。得手のロシア史の延長上に台湾史を捉え、その自決独立に一臂(いっぴ)を貸しほぼ一生を擲(なげう)って台湾独立運動に身を投じた熱血漢だ。宋重陽と筆名して健筆を振るい国民党下の台湾の不条理を訴え、仮装をして台湾に潜入し某要人の島外脱出を助けすらもした武勇伝は、台独運動に携わる者には忘れられない。台湾人のMへの思い入れはさぞやと思われるのだが・・・。
台湾独立運動の機関誌「台湾青年」の論文の英訳を頼まれたのは、60年代の半ば、総合誌「自由」の編集に携わっていたときだ。互いに30歳前後のこと、意気に感じて引き受け台湾独立をベクトルの論文を多く英訳し、必然的に台湾というかつての統治国への心情が陶冶(とうや)されて今日に至っている。
さて、本稿の意図は、実はその辺りの述懐ではない。先日のある会合の場で直観した台独運動の現実と日を追って萎えるMの有様を心ならずも対比してのわが思いを伝えたいとの試みなのだ。二二八事件(注)を祈念するこの日の会合は、犠牲者を悼み台独を願う思いに満ち溢れて盛会だったが、その気に水を差す一対の「出来事」が起こっていた。台湾への思いが深い一日本人として、関係者への差し障りなど深慮の末、決然としてその経緯を披露したい。
台湾と日本は一衣帯水、互いに東アジアの要衝に位置して相互補完は玉条の理だ。心ある日本人は台湾の行く末をわがことのように案じ、台湾人は多く親日で日本に頼む処が多い。先日の会合ならば、台湾人の弁士は須(すべから)く日本人への「頼む思い」を忘れず、出席の日本人は言わずもがなの「親台の心情」を捧げてこその友好の場であろうと思う。
出来事の一つは、挨拶に立った某台湾人の思い上がりの弁だ。故あってか日本国籍を取得してメディアに巣くっている御仁だが、数分の挨拶は日本への頼む思いの影もなく、自己宣伝と思(おぼ)しき言に終始して傲然と歩み去った。理由は如何にもせよ、勝利が不可欠の来春の総統選挙を控えて、その場の親台日本人に辞を低くして語るべき言葉が一片もなかったとは、これを傲慢を云わずして何と云おう哉。
さらに一つ、会合も終わり近く、わがMがひと言の挨拶を乞われて壇上に立った時の出来事だ。かつてのMならば、これ幸いと十八番のアルバニア話しを皮切りに台独達成への熱弁を振るうだろうに、無念、体調如何にも優れず、まともな言葉も発せず旨いものを食するが何よりなどの戯れ言でマイクを背にした。最寄りの連中はあっけに取られたか、無言でMを見送った。
今にして思えば、たとえば至近に座っていた主賓の台湾人弁士K教授はMを知ること親身の如く、彼の献身を誰よりも熟知している。ほぼその一生を台湾のために捧げ来た男が、人びとの前で愚にも付かぬ言葉を発して去る姿を傍観したとは何たることか。情けあれば、愚言を発するMに走りより、それを機会に彼の計り知れない台独への貢献を昂然と大衆に語り聞かせる才覚はなかったのか。個人的に知己であるK教授だけに、如何にも惜しまれてならない。
私見だが、物事はすべて相身互い、国際政治の常識として日台関係はアメリカを軸に相関しているのは明らかだ。国も人も互いに慈しみ合わねばならぬ。互恵と共助の思いこそが要(かなめ)、日台両国が肩を組み合うことこそ必須であろう。日本人にして台湾建国の夢に賭けたMの献身が、ついに活きる日の来たれと祈るや切である。
ソファに座り込むMに、腹を指先に突きながらしっかり食っているかと聞いた。ああ食っていると云いながら彼の言葉はうわの空だった。台独で走り回る勢いは最早彼にはない。筋の通った話しも交わせずに、傍らの細君に万事頼むと辞したのだが、言い知れぬ寂しさが残った。
Mには著書がある。「台湾建国 台湾人と共に歩いた四十七年」という自叙伝で李登輝前総統が推薦文を寄せている名著だ。本稿を読まれての感想をお寄せ頂いた読者に送呈申し上げたい。
(注)二二八事件関連記事 → 「二二八事件に思う」
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