苦笑いのエピソード(29)

お読みいただいている「苦学記」はいかにも辛そうなタイトルで、折角アメリカまで出掛けたのだから楽しいこともあったろうから、どうだ苦楽記なんかに改題してはなどのお知恵を頂きもしたのだが、それはゆるゆるご披露するとして、思えばボイシでの二年間は満足感こそあれ愉快とは縁遠い時間だった。

苦学だからとて苦しかったことを論(あげつら)えば果てしがない。戦後まだ十年経ったか経たぬかの時期のアメリカ行、これは自分で選んだ険しい路だ。渡米に至る数々の苦労は夢と希望に裏打ちされたもので、辛さと愉快が綯い交ぜの縄目のようだったが、渡米後ボイシ時代のそれはこっちから買って出た苦労だから、オニが出てもジャが出ても苦しいと言えるギリではない。いくつかの出来事はいま思えばさほどにも思えぬが、あの日あの時には紛れもなく苦労だった。

さて、トムの尻馬に乗って金策に明け暮れた日々が過ぎて、いよいよ本番、晴れて入学の日が近づいた。城なら大手門、手続きのあれこれはディックたちの話でおおよその段取りは呑み込んでいるが、これまでの苦労が実る瞬間だ、流石にそわつく気持ちを抑えかねた。入学手続き当日の「出来事」が実は大話になるのだがそれは次回に、今日は話ついでに他ならぬ「苦労話」を笑いのネタで一席ご披露しよう。他愛もない酔狂な話とお聞き流し願いたい。

そもそもあの時期にアメリカに渡ること自体が苦労の始まりで、私の場合、思いつきで買った苦労ではなかった。戦後十年がようやく経ったばかり、負けた日本では当然ながら勝ったアメリカにも戦禍の端くれはあったのだ。それを承知で渡米する気になったのは、負けるはずのない日本を破った国をこの目で見たいとの熱病にも似た執念に後押しされての企てだった。危ないから止めろとの陰口も聞かぬ振りをして驀地(まっしぐら)に来たからには覚悟があった。戦場で父子、兄弟を亡くした家族に問い詰められたら何と言おう、クラスで戦中日本を話題にされたらどう語ればいいかなどなど、無意識に心積もりをしていた。
「俺を透して日本が見られている。」
新調のネクタイを締めると矢鱈に人目を気にするように、私は自分の振る舞いを過剰なまでに意識したのだ。

日本人の影も見かけないアイダホの田舎町、ボイシで私は目立った存在だったから、厭でも過剰なまでに意識した。顔立ちや髪の色は隠しおおせないが振る舞いだけはらしくない努力をした。らしくないとはどこか自虐的で、日本人の負の面を見せまいという意味で、考えれば愚かしい限りの努力だった。

告白するが、それでも私は結構大真面目にそう心掛けたのだ。情けないことにそれが裏目に出て、却って日本人っぽさが露呈したことが一再ならずあったのである。例えば笑いをめぐる葛藤がそれだ。

へらへら笑うのが日本人の悪弊だと聞いていたから、私は笑うTPOを学ぼうとした。笑いといっても含み笑いから微笑、微笑みから爆笑まで、神経を使うとなると半端な作業ではない。ここはニッコリぐらいにしておこうか、これはクスクスぐらいはいいだろう、と。まして、まかり間違えると顰蹙を買うかもしれない爆笑となると、これはなかなか踏み切れないものだ。だから、アメリカ時代、といっても流石にボイシ時代だが爆笑から笑いくずれる経験はなかったのである。テンポを外して笑う気まずさが身に沁みた。

何と愚かなとお笑いなさるな。言葉がまだ不自由な頃、周囲の笑いに同期するのは至難の技なのだ。どっと笑うと言うが、その波にすっと乗るには笑いの動機を同期して理解できるからこそだから。

なにを隠そう、私はアメリカ人の特性と言われる社交性を学ぶのに笑いの感覚を手掛かりにした。苦笑から微笑を経て爆笑まで、私は対話や雑談に神経を尖らせて会得しようとしたのだ。テレビ番組の映像に、隣で弾む他人の雑談に耳を欹(そばだ)てた。

そんな習慣は当然目覚ましい結果をもたらした。ボイシでの最初の半年ほどで、嘘でも軽い笑いには加われる様になっていた。どっと笑えるほどの反応はまだ遠い話だったが、何でもへらへらという日本人の悪癖は隠しおおせたのだ。

言葉がイマイチの頃は程良い微笑ほど強力な言語はない。ときには相手の言い分が判然としなくても、にっとした微笑みで無知をカバーできることを何遍経験したことか。やがてラジオの駄洒落に思わず笑い崩れるようになって、それまでの笑えぬ辛苦を苦笑しながら思い返したものだ。

とんだ閑話休題でご無礼した。次回は晴れて入学を果たした日の華のエピソードをご披露しよう。

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