越年雑感

大晦日、申年がまもなく去る。時間の刻みがあたかも血脈のように感じる境地のわしには、申が酉に代わることの謂れはなんの意味もない。それは慌ただしい年の瀬の節目に過ぎず、残暑未だ尾をひく晩夏のある夕べ、ふと感じるあの秋冷の兆しとは異なものじゃ。

そうじゃ、盛夏を若さに例へれば、秋の訪れは老成への兆しじゃ。いまや八十翁のわしには、その秋もさらに深く、すでに遠く雪の便りも聞こへる山里の佇まいじゃ。若さ溢れる頃はいざ知らず、この歳になれば、年の瀬の忙しなさに紛れて歳を拾ふ仕來りは、神仏の労わり、自然の恵みにも思へる。時の流れを肌身に感じるわしには、これがまた一入なのじゃ。巷の喧騒の年越しは、わしには人混みにあえて紛れて歩き、瞑想する感覚に通じるものがある。

それでも申は酉になる。わが庵に沿ってささやかな鶏舎があり、十數羽の「酉」たちは氣無しかわが世の春めいた嬌聲を擧げておる。愛しい限りじゃ。なんの意味もないと言いながら、申から酉へ歳を越すのは、今の言葉で言うメリットがある。

わしは某サイトに外向けに英語で日本事情を書き下ろしておる。某紙の調べをネタに今年の十大ニュースを書いたのじゃが、熊本の災難が群を抜いて一位じゃった。内憂外患と言うが、他人はいざ知らずわしの見るところ、日本の内憂は他ならぬ自然に見える不気味な綻(ほころ)びじゃ。いま大方が懸念し、ただならぬ外患に見えるトランプの登場などとは次元の違う、明らかに根源的な、われわれの生活をじかに脅かす自然の「乱業」が眼に余るのじゃ。降れば洪水、壊れれば地崩れ、押し寄せれば人知を嘲笑ふかのような大津波と、自然災害はすでに災害を越えて、自然をないがしろにする人間への見せしめかと思わせる仕草じゃ。

その十大ニュースの末尾には、ポケモンGoなる不可解な「代物」が日本の上陸、何やらを追いかけて何人か人が死んだと言ふ。それがニュースになる日本は、すべてを達観し去っている国なのか、救えぬまでに品位の低い国に成り下がっているのか、心ある人に伺ってみたいものじゃ。

そして酉年が來る。

私ごとにたち帰って、わしは酉年を迎えて大いに思ふところがある。飛ぶとか跳ぶとか、翔ぶとか、感覚的なことではない。わしはこの年、大いに「産む」心構えじゃ。鳥たちの産卵と競ふかの如くに筆を馳せたい。年若で書き果せなかったことどもを、敢えて八十二歳にして試みようか。いま、心は筆先の走りもどかしく言葉を紡いでおる。このHPにしてからが、わが伴侶が心を込めて組みたてくれた、いわば文机、折々に思うところを綴らせていこうか。よしなにお見知りお願い申し上げる。

よき酉年をお迎えなされ。

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