都議選の結末を見て、思はず頷く。大方の見方に逆らって立てた卦があたったからだ。いや、結果の良し悪しがどうかうではなく、多分かうなるだらうと踏んだ予感がズバリ的中したことに頷いてゐるだけなのだ。今次の都議選は全ての党派が事実上敗れ、小池都知事の軍門に降ったと云ふのが結末だ。
それは過言だらうとの声には敢えて反論はしない。だが、一桁にさえ陥落すると目された都民ファを蘇生させたのは、他ならぬ小池百合子女史の稀有な政治力だったことは疑う余地がない。選挙目前に姿を隠し投票直前に病み上がり然の姿を見せ、蹌踉めいて見せた仕草は陥落必至の都民ファから離れんとした票を掻き戻すに足る力だった。お見事、生の政治とはかくあるべしとの教訓ですらある。
小池女史のこれまでの足取りから、風向きを捕らえるに敏な人物だとは先刻承知、都政に挑んで勝ち取り、緑の風に乗ってここまで仕切るまでの只者ならぬ手際には感服さえもしてゐたが、兎角の風評も聞き及んではゐた。コロナと五輪の間隙を泳ぎながらの都議会選挙対策や如何に、と窺ってゐたところ、何と、生み育てた都民ファの苦境を横に突如緊急入院と云ふ挙に出た。前記の如く、あれが投票直前の退院を目論んでの挙だったとすれば、これはすでに政治手腕とも言へる手際で、これが図に当たり、吹きやんだかに見えた緑の風が追ひ風に吹き変わった。
やや深読みすれば、小池女史の一人舞台にもう一人あれと思わせる演技を見せた役者がゐる。公明党だ。二三名の定席を死守した振る舞いはこれも見事、つまり今次の都議選の勝者はこの二人と云ふことになる。さらに深く読んで見れば、こんなことも言える(ひょっとするとこれが正解かも知れぬ)。つまり、自民と野党はともに惨敗で、そちらに投ぜられるべき票が都民ファに逆流した、と云ふ図式だ。結論すれば、今次都議選の意外な結果は、自民と野党の為体(ていたらく)と云ふこと。小池女史の真に迫る演技がそれに華を添へたと考へれば、全体像がはっきりする。
さて、かく分析して現象は納得したが、筆者には只ならぬ悩みがある。野党の為体は知れたこととして慮外だが、自民のそれが何とも気に食わぬ。食わぬばかりか不都合である。それと云ふのも、追っつけ始まる総選挙で票を投じる対象が不在なのだ。どの党に投票するか釈然としない。今次都議選で、自公と言いながら連立相手に一頭地抜かれる自民の無様は何たることか、それでなくとも日頃の目に余る支那志向のスタンスに食傷している折から、来る衆院選挙で自民に投票する意欲が萎えてゐるのだ。
いま、筆者は路頭に迷ってゐる。国政選挙に棄権はできぬから投票には出向く。出向いて投票用紙を受け取ってブースには立つ。さて、この一票をどう処理するかである。無言(白票)かひと言書くか、書くなら「自民、目覚めよ」とでも書こうか、などなど。
やれやれ、民主主義とは何とも寝覚めの悪い仕掛けだ。コロナでしこたま傷んだ神経が逆撫でされてゐる身が、いま路頭に迷ってゐる。
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