怯懦の末路

人には頭数ほどの性格があり、持って生まれた質(たち)があり、それぞれに生き方死に方に癖がある。順列組み合わせの理を地で行く如く、似たり寄ったりながらピタリと符合するものはないとしたものだ。

また人は見掛によらぬもので、見るからに豪放磊落な仁に虫も殺せぬ繊細さを垣間見たり、一見頼りなさげな老人にして鮮やかな死に様を見せて周囲を驚かすこともある。これもまた千差万別だ。となれば、見掛け倒しなどといふ感覚は見当違ひになる。人はそもそも見掛けどうりではないからだ。

ついこの間、オフェリアの死に様を彷彿させるなどと揶揄されながら、ある老人が自裁死した。狂ったオフェリアは死に先立って人に末期を予感させはしなかったが、この老人は所嫌はず死にたい、死ぬつもりだと吹聴してゐた。どうも彼の死に様にオフェリアを持ち出すのは見当違ひだ。

この老人、言論人として程々の世評を獲ちえて、ものを書かせては衒学的な言葉を紡ぎ、語らせては言葉を巧みにひけらかしで論敵を煙に巻く才覚は見事だった。潮時を読む才にも長け、翼を左から右へ挿げ替える曲学阿世振りは世の語り草だった。教科書をつくる会では道徳を取り上げ一書をものしたが、これほどの難読書も古今例がないと云ふ。

かう見るとこの老人は一見傑物の風さえも漂はせるではないか。時を得た転身然り、ある意味精緻な言葉遣ひ然り、どうも只者の仕業とも思へない。だが、見掛けによらぬと云ふならこの老人ほど符合する人もをるまい。己の命を絶つなど厳粛たるべき行為を予め吹聴、さらにその実行に他人の助勢を求めるなどの如何にも常軌を逸した振る舞ひから見ると、この傑物、どうやら見掛け倒しも極まる人物に思へてならぬ。

不遜な例かも知れぬが、死期を悟った象は人知れず密林深く迷ひ込むと云ふ。象たちの墓石は象牙の山だ、と。老いた柴犬も主に知られずに山奥に潜んで窃かに死ぬという。

さて、人はどうか。生への未練を捨て切ったものは遺書も残さず、痕跡の一切を消して彼岸へ渡るかも知れぬ。未練の多少で死に様は千差万別だらう。が、これから死ぬぞ死ぬぞと吹聴しつつ死ぬ者の深層心理は果たしてどんなものか。死ぬことが難儀ならば、死ぬと吹聴することで多少なり救ひがあるものか。

そう考えて不図閃いた。あられもしない憶測だが、例の老人の場合は並々ならぬ怯懦の質が成せる技ではないか。怯懦つまり生来の臆病さからあのやうな死に方を選んだのではないか。思想的転向も同じ動機で先が見えた左翼を見切り右翼の安泰に未来を委ねたのでは。自裁死の意図を吹聴して回ることで、怯懦の念を沈める気持だったのではないか。

もっと云へば、この怯懦な老人は己の人生の経営に汲々として家庭の運営に後れを取った。曲がりなりにも知の世界に生きながら、この老人は反骨の息子が知とは縁もゆかりもない世界に堕す様を為す術もなく拱手した。某テレビの記録に見る限り娘との間に血の通う繋がりを維持したとは思へない。

つまり、この老人は実は自ら築いた知の楼閣の不毛を悟り、家族との薄い縁を嘆き、怯懦に過ぎる自分を持て余して、かく自決を吹聴し他人を患はして筏上の水死を選んだのだらう。速く家族に見つけて欲しいから、という理由だったと云ふ。怯懦な老人の死として、何とも痛々しく哀れである。

この老人の生前の知的業績がどう評価されるか、これはひたすら時間の経過を待たねばならない。只、彼の尋常ならぬ死に様がポジティブに作用するとは到底思へない。川端や三島に見られるような、もの思う人の感性を揺さぶるほどの何かがないからだ。云ふならば、怯懦の末路といふことである。

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