リンカーンの話(9)

大使館を後にしたわたしは、「鉄は熱いうちに、というではないか」と、その足でその言葉の審査とやらを受けてやれ、とホゾを固めたのだった。

最寄りの公衆電話からメモに書かれていた電話番号をダイアルした。電話の向こう側には落ち着いた女性の声が、「お待ちします」と言う。番地を確認して、わたしは電話を切った。
田園調布だという。全く知らない土地柄だ。知るわけがない、わたしには縁のない金持ちの住む街だ。地図でおよその見当をつけて、わたしは田園調布へ向かった。新しい展開にテンションが高まるなか、わたしは道を急いだ。

どこをどう行ったのか、まったく覚えていない。後年上野毛に長く住むことになるわたしには田園調布は膝元だが、このときは皆目知らない土地だった。

目的の家に辿り着いた。審査官といわれる人は五十代の品のいい婦人だった。小柄な人で髪をひっつめに結っていたのを覚えている。お名前はすっかり忘れてしまっているが、うろ覚えでは橋本か橋田か、なんでも橋という字を覚えている。招かれて洋風の一間に座り、その人を待った。緊張の極み、わたしは体が震えるのをどうにも止められなかった。

「気をお楽に」。
なにやら手控えを手に、ドアを後ろ手に閉めながら、仮に橋本さんとしておこうか、橋本さんはわたしの気持ちをほぐすように声をかけてくれた。
「これから短いお話を英語でいたしますから、何のお話しだったか、日本語で結構ですからお話ししてみてください」。
橋本さんは手元の資料を開いておもむろに話し始められた。話はリンカーンの逸話だった。筋はまったく覚えていないのだが、話されたことは不思議とよくわかった。答えは日本語でいい、というのが気を楽にしたのだろう。すんなりと答えることができた。しめた、これで済むのかと思ったのは早計で、橋本さんはうなずきながら、さらに続けられた。

「それではいまのお話について、私としばらく英語でお話し合いをさせてください。気をお楽に」。
意表を突かれた。ここからが本題だったのだ。緩みかけた気持ちが一挙に強ばった。それからの10分ほどがわたしには十年にも感じられた。根掘り葉掘りの話になった。所詮は聞いた話の内容、それもほどほどに理解できた話の内容をめぐる対話なのに、どうしてこう思うように運ばないのかと、自分ながら情けなくなった。

「審査」が終わると、橋本さんは意見らしいことは一切言われずに、しばらくは取留めもないお話しをされて、では、とわたしを玄関へ誘(いざな)った。わたしは丁重に礼を述べて辞したのだった。

まったく自信がない。治兵衛ならぬ魂抜けてとぼとぼの心境、どこをどう帰ったのかまるで覚えていない。
さあ、こうなるとその時までの自信めいた気持ちは霧消して、これで査証の見込みが絶たれたのか、とすら思えた。大学構内の仕事の保証なんか役に立たないのでは、と疑心暗鬼に取り憑かれて、わたしはすっかりにふさぎ込んでしまった。
そうなると何もかもが怪しく思えるのが人間の心理だ。怪しく、というのは昨日まで意気込んでいた一切が現実味を失うということだ。須田さんの話も余計なことに思える。何が査証だ、何が旅券だ。困ったものである。すっかり気落ちしたわたしは、それからの数日を悶々と過ごしたのだった。

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コメント

    • Wye Shimamura
    • 2017年 1月 25日

    shavitさん、

    このほど、某紙上でひと記事書き始めました。

    「人工頭脳(AI)時代に人間翻訳は生き残れるか?: 第1回 AI囲碁 AlphaGoの衝撃」http://www.zaikei.co.jp/article/20170125/349205.html 

    ぜひお読みいただいた感想、ご批判など聞かせていただけると有難いと思います。
    連載になりますので、あなたからのご意見などを反映もできますので、
    忌憚のないところをお聞かせください。

    • 島村泰治
    • 2016年 12月 13日

    それはなによりのお言葉、私には千軍の味方をえた思いです。
    ランサーなどで最高齢のなんのと言われて見ると、確かに同年齢はほぼ皆無、
    おられても書き物を、それもキーボードからという方は絶無(かもしれない)。
    この世代の身代わりになって、ほどの気概はありませんが、文字に残すことが革命的に容易になったいま、
    一つにはわが身の来し方行く末を思い、二つにはわが日本の存在感を高めるために、
    文字通りの微力を傾けたい、と、まあ、これは内輪話です…。

    ここを他の人々にご披露頂けるとのこと、これも何より嬉しいことです。
    お読みいただくだけのものを描きたいものだ、ともう大いに気負っています。
    ありがとう。

    それはそれとして、若い世代に代わって是非忌憚のないご意見もお聞かせください。
    批判、批評をこそ重んずべし、が常に私の生きる指針。これは傘寿のいまも変わりません。

    では。

    島村

    • shavit
    • 2016年 12月 12日

    島村様

    ホームページを楽しみにしておりました。これからゆっくり拝見させていただきます。

    最近はCWの方へはあまりうかがっておりません。こちらから直接ご連絡できるようになって、本当にうれしいです。曲がりなりにも翻訳にも携わっておりますので、色々ご教示ください。

    日本はとても寒いと聞いております。何よりも、まずお体をお大事に、私からもお願いいたします。

    shavit

      • 島村泰治
      • 2016年 12月 12日

      こちらへのご連絡、嬉しく拝読。あちこちに書いてはいますが、HPとて住居を構えるのは初めて、
      どことなく落ち着きが悪い。あれやこれや、曝け出すには身構えが必要と思うから、
      筆の運びも神経が行き届くことになるような、そんな感じがします。

      まだアップしてはいませんが、私は日本を訪れる外交人にトータルで分かってもらうために、
      日本を度するときの「心得」を指南しようと、Trekkinng Japan という記事を10点セットで
      書き上げています。載ったら是非ご意見を聞かせてください。

      ではまた。

      島村

        • shavit
        • 2016年 12月 12日

        いいえ、こちらの方が、はるかに落ち着く場所になります。
        外のチャットルームには、あまりにも多くの人が出入りして、あまりにも多くの雑音に左右されがちです。
        昨今のウェブコンテンツ流用事件を受けて、ウェブ上には良質の読み物が、あまりにも減っているという意見も聞かれます。その通りですので、こちらでは訪れる方々に、時間を費やすに値するものが提供されていることを、知人にも推薦させていただきたいと思います。

        shavit

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