嬉しや林檎

十月は出雲はいざ知らず神無月、月数も二桁になると年の瀬が近く、秋色が深まり自然の恵みが実るのが何よりの愉しみ。この頃になると、その恵みのひとつがわが庵を訪れる。遥々と、林檎の里青森から紅玉の一箱が届けられる。捥ぎたての紅玉、皮ごと齧(かじ)れる紅玉が届いて、私の秋がはじまる。

もうひと昔にもならうか、靖国詣での縁でお近づきなったプロカメラマン、白鳥氏にこぼした愚痴が発端で、青森の林檎農家にご縁ができたことから、毎年この頃に紅玉を味う贅沢に酔い痴れるやうになった。「果物は林檎、それも紅玉に限るんだが、近頃の奴は甘いばっかりで、皮ごと食う俺にゃもう林檎は亡きものになった」とこぼす私に、ならばと青森の知人に口を聞いてくれたのである。林檎農家の一戸さんだ。社会派の白鳥氏の写真行脚は、聞けば呆れるほど広いのだが、林檎の賄いまで及ぶとは恐れ入った。

聞き慣れぬ名の林檎が巷に溢れ、どれもこれも女子ども(いや、ご無礼)好みの甘味本位の奴ばかりで、王道の紅玉は料理用に特化して疾うに脇に追いやられ、並みの店では置いてもいない。味馬鹿とは哀れなもので、皮ごと齧る紅玉の、さう、皮の裏側の美味をもろに噛み込む醍醐味が賞味できぬとは、最早慰めるにも言葉がない。

聞けば、紅玉の前身はデリシャスらしい。これは留学時にしこたま食ったが、さて、そ奴に日本の紅玉の味があったかどうか、六十年前の味は思ひ出せぬが、いまかうして齧ってみてグッとくる紅玉の味覚があったやうには思へぬ。系統は同じで見掛けはそっくりでも、味覚は移ったやうに思へてならぬ。

何ごともさうだが、ものは日本に入って「味」が変わる。宗教も文化もわが国に齎(もたら)せられるや変容する。豊かな自然が為せる技か、日本人生来の巧みか、それは知らぬがこの現象は間違ひない。紅玉にしてからがさうに違ひない。たかが林檎にして、日本入りして味が変容することの妙に、ひたすら恐れ入る次第。

林檎もなまもの、年によって味が微妙に違ふものだ。思へば去年の紅玉は天下一品だった。やや経(へ)たってきた最後の一個ですら紅玉の味覚、あれほど惜しんだことはない。さて、今年の紅玉や如何に。まだ二個ほど賞味したに過ぎぬが、去年の思い出が余りにも強烈だから、初手の二、三個は久し振り感覚が勝って咄嗟の満足感、齧り込むうちに美味が深まるかどうか・・・何とも贅沢な愉しみがいっ時続く。

せめてものお礼に、今年豊作のカボスを小箱一箱送る所存。大分が特産というこの柑橘が青森では育ち難かるべしとの企みだが、さて。

後刻、お礼に呈上したわが庵地採りのカボス、一戸さんから美味かったとのわざわざの電話を頂戴して大いに恐縮。何でも北の土地ではああまでは上手く育たぬ、と。わが好物の紅玉の華こそないが、手前もののカボスが僅かでもお礼心になったか、と胸膨らむ想ひだ。

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