住めば都というが、住むところばかりが都じゃない。
ふと、なにかに急かされて旅に出る、レールを刻む列車に揺られながら車窓に懐かしい景色が回るのを楽しむ…..。
そう、都は創れるものじゃ。旅に出れば、往く先々に都を創れる、これも年の功じゃろうか。
そんな都創りにわしはよく遠出も厭わぬ。折に気が進まぬが、蕎麦が絡めば、一向に苦にならぬのが不思議じゃ。
思えば旧年、晩秋のある日、そんな想いで信州へ旅立った。
好きな蕎麦を食わんがための戸隠行じゃ。愛妻を誘ったのは車の運転のためじゃが、蕎麦好きは同じとて、彼女も四の五も言わずに、嬉々としてハンドルを握ってくれた。そう、もうわしはやや遠出の運転は苦手なのじゃ。
蕎麦に引かれて善光寺、国宝善光寺は信州の魂じゃ。仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺じゃから、宗派の別なくお参り可能な霊場で、昔は稀な女人救済、女性の參詣が多いからからだろう、どこか柔らかい、色氣のあるお寺なのじゃ。
さらに「東山魁夷館」。戸隠への道すがら、わしはいつもここに立ち寄り魁夷の青の世界に浸るのじゃ。絵心が貧しいわしには凝った抽象は鬼門じゃ。洋が匂う和の趣きが、この絵描きの骨頂と思う。
さて、戸隠蕎麦の話。蕎麦好きには様々あって、いや、戸隠ばかりじゃ蕎麦じゃないと刃向かう輩もおろうが、わしは敢へて逆らわん。蕎麦は空気とともに手繰るものだと思うからじゃ。戸隠の空気もわしには蕎麦の味じゃから。好みの蕎麦屋に席を取る。角が立つから屋号は伏せるが、ここは盛りは無比、蕎麦掻きが絶品。時ならぬ日暮しを藥味に手繰る戸隠の蕎麦は味覚の粋じゃ。
蕎麦が済めば戸隠神社へ。長い登り石段の途中に立ち止まり、鬱蒼の木立を眺め、はるか砂利道を往く幾組かの参詣客の後ろ姿を追う。膝の具合を斟酌してお参りは省き、辺りの茶屋に戻り、一っ時を過ごして帰途へ。
やや降って、窓外に以前立ち寄った「忍者屋敷」を見咎め、「行ってみようか」….。あの時、何がしか木戸銭を払って入った屋敷、何の変哲もない座敷の部屋のはずだったが、なんのカラクリか、部屋中が「歪んで」立っておられなんだ。
思い出すままに、気のせいかグラっときたのじゃな。大事をとって、忍者屋敷は通り過ぎ、林間の道を麓へ急いだ。
戸隠の秋はもう色が枯れ切っていた。
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