3 Mesa Vista Drive…(21)

3 Mesa Vista Drive…懐かしいアドレスだ。…Boise, Idaho, U.S.A.と続くこのアドレスは、数年前に私が縋(すが)る思いで航空便を書き綴った住所だ。祈りを込めて書き送る便りに、鳩首して受け取る便りに、いつも見慣れ書き慣れたアドレスだ。いま恩師宅の門柱にそれを目の当たりにしてわたしは、感無量をはるかに越えて、一瞬息詰まる思いで立ち竦(すく)んだ。「遙けくも来んぬるかな」…。あの瞬間の感慨は、半世紀余を経たいまも生々しい。

走馬灯
Eugene B. Chaffe … さり気ない門柱の表札を凝視する。じわっと視界が曇り、焦点の合わない映像が重なった。ドルが欲しいとて母校に英語講師として奉職、二年間日々教壇から見下ろした生徒たちの顔々、渡航の手立てを探して意味もなく彷徨った横浜港辺りの船会社の建物、埠頭の貨物船、アメリカの大学への手づるを求めて訪ねた虎ノ門のアメリカ文化センター、にっと微笑んだあの女子職員、そして須田さん、アメリカ大使館のマイヤーさん、見送ってくれた家族、友人たち、埠頭に舞った無数のテープ、などなど、懐かしい群像が取り留めもなく走馬燈のように流れた。思わず後ろ髪を引かれて、わたしは大いに戸惑った。

事実上のアメリカ生活の初っ端から、あろうことか、わたしはすでに強烈な望郷の念に襲われたのだ。なんたる怯懦(きょうだ)、思わぬ不覚。わたしは大いに慌てたのである。豪胆を自認する身の逡巡が意外だったのである。だが思えば、あの瞬間の不意の女々しさが逆にわたしの背中を押し、発条(ばね)となってわたしを支えてくれた。その後のアメリカでの日々、事あるごとにこれが文字通り springboard になった。

”Come right in, Yasuharu!” チェイフィー夫人に呼び掛けられて、わたしはわれに返り白一色の建物の、これも見事に白い玄関の扉を開けた。瀟洒な邸宅である。取り立てて豪華ではなく、むしろ質素な雰囲気のアティック付きの平屋建てが、なんでも大袈裟な感じがしていたアメリカ風とは違う雰囲気がわたしには意外に見えた。

居間に通される。日本間なら十畳ほど、wall-to-wall 絨毯の一見茶系の色合いの落ち着いた部屋だ。左奥にピアノ、その手前に暖炉、右側には天上から床までのガラス窓、窓越し庭が下り坂に広がり芝の緑が鮮やかだ。庭を下って遙か遠方、中央に塔を構えた煉瓦の建物が見える。数日も経たぬうちに、窓拭きから床掃除をすることになる大学のAdministration Building 事務棟だ。周辺に同じ煉瓦葺きの建物が散っている。広々とした景色だ。

戸惑い
窓越しの景色にみとれながら、わたしはふっくらとしたソファに座った。まったく記憶にない快適な座り心地だ。手水を使っておられる先生、もてなしの飲み物などを用意されているらしい夫人の様子を感じながら、わたしは止めどない不安感に慄いている。挨拶は何と、言葉は如何に、と何もかもが不安だらけだ。土足で絨毯を踏む心許なさ、余りにも座り心地の良いソファにむしろ総身が硬直して、わたしは中耳に血脈を感じながら、ひたすら心ここにあらずの状態を耐えた。

「何と大袈裟な!」と思われる勿(なか)れ。大方の人びとには、その時のわたしの心理状態は想像もつくべくもない。まだたっぷりと戦中を引きずっていたわたしは、現にこうしてかつての「敵国」に渡り、恩義を受けたとはいえ当の「敵国人」の家に歩み入り、将に言葉を交わさんとする状況に立ち至って、わたしは自分の立ち位置を定めきれずに戸惑い、上気とも興奮とも取れぬ不安定な心理状態に浸っていた。

“Be right with you…Yasuharu.” 左手奥の台所から夫人の声。手洗いの方向から、何か言いながら先生がこちらへ向かってこられる。切羽詰まったわたしは、身繕いをして立ち上がった。

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