畑の辺(ほとり)の花壇

二年前に思ひ切って庭の桜を伐り倒したが、(「老桜よさらば」参照)その折に健太の墓に沿って花を育てる場を設(しつら)えた。そのうちに花壇と呼べる場にならうかとの目論見だったが、その目論見が図に中って、それがいま、真っ当な花壇にならうかほどの勢ひだ。

其れと云ふのも、名うての桜がなくなった寂しさからもあらうか、俄かにわが女房どのに花ごころが芽生えて、在り来たりの草花の枠を超えていま、カタカナ名前の奴や葉を楽しむ種類にまで手ならぬ目を伸ばして、かちかちと手鋏を鳴らしながら玄人まがいの樹木剪定までやってをる。庵主としては頼もしい限りだが、さて、どこまで樹花の道を尽くし切れるか、お手並み拝見と云ふところだ。

岡目八目とか、傍目には花を弄(いじ)る女房どのの姿が真っ当に見える。テレビでも園芸番組を好んで拾ひ見たり、ユーチューブなどで植木職人が挙げる動画を走らせて剪定のコツを覚えるなど、只ならぬ打ち込みやうだ。剪定と云へば、二日ほど前、かねてよりの菓子胡桃の枝下ろしを仕遂げた。例の段梯子を掛けての一丁前仕事で、時々見上げては枝具合を測りながらの剪定作業は、なかなか堂に入ってをる。切り口に防菌塗料を塗るほどの凝りやうだ。

植物には土壌が命だと云ふ常識をやうやく納得したやうで、庭にシートを広げてスツールを置き、それに座るやあれこれと種類の違ふ土を混ぜては大小の鉢に仕分ける様子も、側で見る眼には嫌々ながらとは思へない。これもテレビで学習したのだらう、買ってきた花の株を取り出し端根を切り分ける風情は何でも承知で、咲いたらどうなるとの見通しをつけての作業だと分かる。

さうさう、わが女房どのには人に抜きん出た経済感覚があり、育てた草花を鑑賞する域から出て、その生産性を考えるほどに進化してをる。ミントがいい例だ。庵主が好みの桔梗を楽しんで育ててゐた窓下のよい陽のあたる半畳ほどの花場が、何時の間にかミント畑に化け、いまや相当量のミント茶葉が収穫されてをる。

ミント畑

そればかりではない、庭の一角に茂る月桂樹が、いまや料理用のローリエとして製品化されてをり、何時かな狭山から買って帰った茶の木が今では相当に樹勢をつけ、手揉みの煎茶葉に化けてをる。最近はさらに何やら云ふ新手の植物を取り込んで、これも乾燥し切り刻んで何やらティーと名付け、売れる品物に仕上げてをる。わが庵からは、すでに何年越しにもなる鶏卵を頒布してをる、べに花ふるさと館なる最寄りの道の駅に、何と、これらの品々を出品して程々に売り上げてをる。この道の駅では庵主手製の風車(かざぐるま)(「ジンジャーエールと風車」参照)も細々とではあるが売られてをる。ことほど左様に、めっきり樹花づいた頼もしきわが女房どのは、草花から樹木まで、趣味と実益の楽しみを深めてをる。庵主としてはこれに過ぎる愉悦はない。

土に親しむ心掛けは人の心を謙虚にするものだ。蒔いた種が芽を吹く風情、それが時を経て実を付ける植物の仕来りを見て、人は自然の営みを肌で感じ、付けた実を享受する喜びが営々と積み重なって人生を豊かにする。わが庵、そんな豊かさがいま横溢してをる。

さて、健太の墓に寄り添う未来の花壇で、樹花に目覚めた女房どの執念が何時(いつ)どう実るか、これが見ものだ。健太もさぞ喜ぶだらうし、何よりも庭の一角が四季とりどりの樹花で飾られる風情は、鄙(ひな)の庵には何よりのチャームである。乞ふご期待。

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