さて、外では足元に火がついているトランプの顔色を窺いながら火遊びにふけり、内では金王朝の三代目として保身のために父母の愛した実兄を亡きものにするとか、地下に潜って滅多には姿を見せぬとか、この正恩という男、気を見るに敏といおうか、なかなか一筋縄ではいかぬ輩のようじゃ.
しかし、じゃ。その輩の振る舞いに一喜一憂し、うまく作動せぬなにやらアラートを嘆き、慌てて子供らに頭を抱えて地面に伏せる仕草を教えるしか藝がないとは、わが日本もいかにも情けないとは思われぬか?
さて、わしはこれを書きながらしみじみ思う。とって八十二歳になるわしには、いまアメリカに熱(いき)り立つあの國の姿に、あの戦争に踏み込む直前の日本の姿が重なってみえるのじゃ。鬼畜なにやらを叫び、一億いざ撃ちてし止まんと子供ながらに胸を張る自分が見える。テレビで馴染んだあの桃色衣装の女性が意気軒昂に叫ぶ姿を、わしは「なんと大袈裟な」と苦笑しながらも痛々しさをも覚えるのじゃ。
今にして思えば、日本は追い込まれてあの戦いに踏み切ったのじゃ。決して他国を貶めようと目論んだ戦(いくさ)ではなかった。真珠湾に至る数年、幼いわしは身の回りに只ならぬ不穏を見聞きしておった。わしは、いまあの國に滾(たぎ)っている熱気に確かに覚えがある。時こそ違え、背景も動機も異次元であれ、ひたすらアメリカ憎しと熱り立つあの國のいまの姿は、水際に立たされた当時の日本のそれと悲しくも瓜二つじゃ。
わしはこう思う。智慧者は歴史にこそ學ぶとか。あの輩の振る賽子(さいころ)がどんな目を出そうとも、日本は叡智を尽くして國家の安寧を図らねばならぬ。使えもせぬ核の保有を競うよりは、技術立國たる日本はまず極上の「ハリセンボン」たるべきじゃ。超技術を駆使して、遂には核を超える「衣」を纏って「寄らば御身の破滅ぞ」と嘯(うそぶ)く境地に至ろうではないか。
諸君、絵空事と言うなかれ。そこに至る道程には、まずはあの輩の火遊びを格好の口実に、いまや日本にとって核武装の含む自主國防体制が如何に必須かをトランプに悟らせ、彼の任期の果てるまでに日米安保のヴァージョンアップを済ますことじゃ。その先にこそ「ハリセンボン」の境地が待っておる。
それには日本國民が目覚めねばならぬ。世迷い言ながら、わしはあの輩の火遊びで日本の何処かで小火(ぼや)でも起きれば、とすら思っておる。えらいこっちゃ、と気づくきっかけから、九条を奉る輩たちが目覚めれば、これはもっけの幸いというのものじゃ。
今朝のテレビ、頭巾を被って地面に這う子どもたちの群れのなかに、わしはたしかに自分を見た。
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