不信感止み難し

それにしてもこのコロナ騒ぎは、迷惑至極では済まぬ煩はしさで、私に至っては物ごとを見る目すらが変貌するほどの出来事だった。だったとするからには、今はさほど騒ぐに当たらぬと見定めてをるのだが、さうは言ひながら、この騒ぎの所為(せい)で心中只事ならぬ変化が生じてゐることに、じつは動揺してゐるのだ。

それと云ふのは他でもない、この騒ぎの所為でお医者さんへの得も云われぬ不信感が沛然と沸いてゐるのだ。私ばかりではない、世のかなりの人々がさう感じてゐるのではなからうか。

さう、お医者さん。幼少からお医者さんは、お巡りさんと同様に親しむべき存在で、何かあったら頼れる大人の代名詞だった。何かの意図があっての呼ばわりだったかも知れぬが、世の子供たちはさう呼び習はし、ともに頼れる大人のシンボルとして親しんだものだ。お巡りさん感覚にも似たやうな変化がある気配はあるが、ここではこれはさて措こうか。

商売にはまず商品があり、売り手と買ひ手がある、これは道理だ。売らんかなの思ひは商人の甲斐性で、品選びはお客の心意気かつ楽しみで、これも水の流れのやうに自然な在り様だ。それはよしとして、この度のコロナ騒ぎは何とも奇態な現象を産んだ。病人の数が減って病院の「経営が成り立たぬ」と云ふ現象が起こった。コロナ感染を怖がった高齢の患者が病院通ひを見合はせたことが、原因らしい。この辺から世の医療体制の歪みが露呈、もの思ふものには 病院の企業性が気になるやうになった。私などもその一人で、商売としての病院にも売らんかなの思ひがあるんだなあとの違和感に似た感慨に浸る時すらあった。

やがてコロナ騒ぎの実態が、じつは俗に云ふグローバリズムに根ざす壮大だが怪しげな企みの一環であり、どうやら製薬医療ともにその中心的な機能を果してをるとの図柄が明らかになるに及び、病院の企業体質、それに与する医家の商人根性までが見え透いてくると、私の医療への不信感が増すとともに、それまでのお医者さんへの仄かな親和感が轟然と崩れ、コペルニクス的な価値観の逆転が沛然と巻き起こったのだ。

その感覚的逆転は果てしなく、商売人としての医者は病人こそが飯の種で、病人を絶やさぬことこそ商売の要諦と心得、薬が商品の薬業と結託して一斉に病人作りに精を出すに至ってをる、と。薬屋には悪人がをって、ほどほどに病人を絶やさぬような薬を作って医者に手渡し、医師はそれと承知して巧みにそれを配剤する世にも怪しからぬ悪習が蔓延るに至った、と。

それに輪を掛ける状況が起こってをるから、私の杞憂には果てしがない。

聞けば、悪名高い遺伝子組み換えワクチンは打てば打つほど効果が薄れる、薄れるどころか逆な効果がいや増すと云ふ。時の政府がそれを知ってか知らずてか(いや、明らかに知っての上で)ワクチンを子供らにまで打ちまくる方針を崩さず、マスクを外すなよの大号令と相まって、いま世は狂気の沙汰が蔓延中だ。

言葉が過ぎるとすれば詫びもしやうが、私にはこれがいま日本国中を吹きまくってをる社会的ヒステリアに見えるのだから止むを得ない。

さう思ふ分にはさしたる障りもないのだが、そんな感覚が昂じて、日頃馴染んだお医者さんへの言い知れぬ不信感が沸々と沸きつつあり、もらってゐる薬のそれぞれをじっと見つめて、これは病気作りの奴ではと疑ふまでに疑念が増幅してゐるのだから、何をか況やである。

例の二類五類の話にしてからが然り。政府は見るからに風邪症状と思しき「病状」をメディアを介して大袈裟に演出、罪なき衆生を惑わす。猛暑の最中にマスクを外せとは毫も言わぬ様を見ては、これは既に常軌を逸した仕草で、醒めた眼には狂気とすら思へる。類を変へれば何のこともない話、それが出来ぬからには裏に深い沼があるに違ひない。

ここはひとつ、日本人の叡智を生かしてその沼の実態を見抜き、見事この企みの裏をかかうではないか。

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