秋思考

季節を語るとき思考を妨げるクリシェイが鬱陶しい。天が高からずとも、馬が一向に肥えずとも辺りに秋の気配が忍び寄る趣は歴然、八十路半ばの翁にはそれに沁みじみ浸りながら、何処か幽かな痛みを覚えるのは如何。

それでも、秋はやはり秋、私はこの季節をこよなく好む。考への重みがぐんと増し、理路のルーティングがひときわ整ふからに違ひない。天や馬や食い気に関係なく、秋には物思ひがはかどる。春の気まぐれ夏の野放図、冬の堂々巡りの一切をこの時期に整形する仕来りは、私がもう長いこと勤しんできた無上の愉しみだ。

桶川に根づいて十年余、私はぐんと土に親しみ、植生と和み、生活のリズムもテンポも自然の拍動と鮮やかにシンクロする様を刻々と実体験する、この上なく快い日々を送ってゐる。時間が足りぬと嘆きながら、その実、一刻毎を噛みしめる充実感を味はへる冥利はなによりである。八十路も半ばを過ぎると時間への感覚がぐんと敏になる。青壮年にはその実体が見えなかった時間という生きものが、その生きてゐるままに如実に見えるのが不思議でならぬ。

秋には「時」がよく熟れる。することなすこと、対時間効果が頗る高い。一欠片の発想が瞬く間に発酵して二次、三次と次元が広がり、あれよあれよと具体する。そんなことが時を選ばず起こる。書きものを思ひ立てばテーマはふんだんに辺りに散在し、言葉を紡ぐにも淀むことがない。実りの秋とはまさに至言。

近年、ホームページへの寄稿が呼び水になって書きものが多くなった。身辺のあれこれから昔日への想い、老いての感慨など、徒然(つれづれ)に綴るのが慣はしになってゐる。ものを読んでも捗ることから、読み止(さ)しの本が矢鱈と増へる。漱石などを読み止してはモームの短編を舐め、ベートーベンの書簡を拾い読みしては不図テニソンをめくる、など。あれこれと散る女心が秋の空なら読書また然り、私ごとにもせよこれまた至言である。

人生百年時代において八十路は秋、遙か彼方にあの世が見通せる観念の歳、時間の足音が聞こえ、折々の休憩さえなにをしておるかの警策でままならぬ。若かりし頃のわがしたり顔が疎ましく、老いてなお見知らぬことの多さが嘆かはしい。その嘆きを、なんと味ぢはふ心地さへする、そのせいだらうか、冬の訪れを予感しつつ秋をそぞろ愛ほしむ私だ。

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