まず帰りの船賃を…(22)

グレイハウンドのしゃきっとしたシートに馴染んでいたわたしは、しきりに居間のソファの柔らかな感触を持て余していた。背もたれに任せてふんぞり返るわけにもいかず、背筋を伸ばすには尻回りが不安定だったのだ。みっともない座り方だと思われぬように、いらぬ神経を病んでいたのだ。

先生がやや体を揺らせながら近付かれて来られる。脚がご不自由のようだ。わたしはバネさながらにすっくと立ち上がり、無意識に直立不動、深々と礼をした。なにやら話されながら、先生は私の右肩に左手を、右手で私の右手を取られ、「まあ、そんなに畏まらずに」の風情で、わたしをソファに押し戻し座り直させた。

その折の言葉のやりとりを、わたしは具(つぶさ)には覚えていない。ありきたりの会話が交わされていた筈だが、わたしにはただ異様な緊張感だけが鮮明に残っている。ものごとには初体験ということがある。いま「敵国」にいるのだという感覚が、その折のわたしの深層心理を重く支配していた。それはわたしにとって何とも希有な初経験だった。先生ご夫妻の目に映るあの日のわたしの言動は、さぞや奇態なものだったに違いない。

“You were dead nervous that day, Yasu.” 夫人は後日わたしにそう述懐された。手に負えないほどこちこちだった、とも言われた。日頃沈着冷静を旨とするわたしとしては、いまはなんとも気恥ずかしく、途轍(とてつ)もなく懐かしい思い出だ。以後、傘寿を越えるいままで、あれほどの舞い上がるような緊張感はついぞ覚えがないからである。

さて、いっときの緊張感が解け、温和な先生ご夫妻の手引きもあって、わたしは豆を摘むような拙ない語り口で、そこに至る出来事のあれこれから先生のお力で渡米できた経緯や資金作りの苦労話まで、訥々(とつとつ)と語った。言葉遣いに気を遣いながら、わたしは日本を負かしたアメリカを自分の目で見たかったことを、ときに込み上げる想いを抑えながらお二人に伝えた。

先生ご夫妻は、わたしの話しに明らかに感動されたようだった。ご夫人がふと脇を向かれてハンカチを使われたのを覚えている。Chaffee先生はわたしの言葉を妨げることなく、終止頷かれてわたしの言葉を噛みしめるように聞いておられた。

Chaffeeという姓はノルマン系だという。一見ドイツ人風の厳格さが、ある種の威圧感を滲ませる。言葉少なに的を射るような話しぶりで、あの日のChaffee先生の風貌が、わたしの脳裏にアメリカ人の典型としてインプリントされた感がある。

わたしは、話し疲れてもあってソファに深く座り込んだ。それを見計らってか夫人はかねて用意のコーヒーをわたしに薦められた。初のアメリカン・コーヒーだ。(なんと、わたしにとっては後にも先にも初めてのコーヒーだった!)それはお世辞にも美味しいものではなかった。ひたすら苦い、奇体な飲み物だった。お茶の美味さを懐かしく思い出させる「代物」だった。そうとは思わせず飲みながら、わたしは先生の言葉を待った。なにかと大変だったな、という意味のひとことを半ば期待しながら、である。

よく思いきって来られた、しっかり頑張ってという意味を話された後の先生の次のひと言に、わたしは背筋への強烈な一鞭を受けた思いで硬直した。現実問題として、と断った上で、先生はこう言われたのだ。

「私は駐日米大使館との約束があります。私の大学構内で仕事を保証すること、これは確かに引き受けます。夏期休暇中の大学構内の設備の清掃をしてもらうよう手配してあります。明日、担当のスタッフを紹介しますから万事相談してください。」

「そして、週払いされる報酬からまず帰国の船賃を積み立ててください。」

責めないで欲しい。着いてまだ二日三日、挨拶を交わしたばかりの席で突如「帰国」「船賃」「積み立て」などの言葉がほかならぬ先生の口から出たことに、わたしは全身が凍り付くのを感じた。緩んでいた体中のネジがぎゅっと締まった一瞬だった。赤裸々な「現実」を見た思いだった。

わたしは、懸命に自分の心理的動揺を抑えながら、先生ご夫妻の姿を見る目が微妙に変わるのに気付いた。「自分はこの方々に甘えてはならぬ。浮ついた気持ちでは時間を過ごせぬ。アメリカを見に来たどころではない、自分を通して日本が見られることになるのだ」と。

わたしはその晩は先生宅の一間で過ごし、翌日には夏期休暇中の学生寮の片隅に移ることになる。その夜、わたしは瞬きもせずに朝の白みを迎えたのである。

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