諳んじること

さて、題目の漢字を難なく読める御仁がどれほど居られやうか。流石に「あんじる」とは読めまいとは思はれても、直ちに「そらんじる」と読まれるのは少なからう。

諳んじるとは誦んじるとも書かれ、巷では空んじるでもよからうと思われる人も多からう。意味を云ふなら実はどれでもいいのだが、語感を云ふなら暗じるか誦んじるだらう。それ、暗誦と云ふではないか。つまり、諳じるとは暗誦すること、厳密には声を出さずに暗唱することだと云へば、大方はなるほどと頷ゐてくれやう。

マクラが長くなったが、此の稿は近頃筆者が気づいた出来事をお話しせんとの企みなのだ。それはかう云ふことだ。門前のなんとやらで、わが庵では宗派に沿った経の幾つかを日頃誦み覚え親しんでをるところ、折からコロナの福音で体調維持にと愚妻が発案、何と、ラヂオ体操をやり始め、今やその順序や仕草にほぼ慣れ切った。つまり、諳んじたのである。

お経の方は、十句観音から般若心経、十三仏から光明真言、観音経普門品第二十五など、経本を横目に諳んじての読経がもう長い習慣で、日頃の嗜みとして定まってをる。ところが、ラヂオ体操は新手の習慣で、筆者などは幼児の頃親しんだ奴とは別種の体操だから、覚え込むにはなかなか骨で、テレビの画面を真似しながらの体操は本来の体操効果がイマイチであった。

そのラヂオ体操が、伴奏音楽ともども、どうやら諳んじられた模様なのだ。所作に身が入ってくるから体に効くやうな感じで、コロナ何のそのと云ふ気概が湧く。昔の伴奏音楽をまだ諳んじてゐる筆者には、今の奴はやや軽薄に聞へるが、体操効果はさまざまな進化が活かされて、ややましになってゐるやうに思へる。兎に角、経にせよ体操にせよ、言葉や体が自ずから動く境地はなかなか捨てがたい。

そこで、つらつら思ふ。諳んじることの意味は考へる以上に深いやうだ。何かをせずとも何かができることは、その組み合わせによっては人の生き方すらも変へうる原理だ。ものを書くことでも、筆が滑らかに運ぶ裏には、意識はせぬまでも、もの思ふ心の脊髄に、何か只ならぬものがすでに諳んじられてゐることがありはせぬか。自然に対するにも、自然とはかくあるべし、かくありなんと思ふ知なり智が諳んじられてをれば、その脅威にすら泰然自若を保てるのではあるまいか。

諳んじること。覚えきってゐる九九があってこそ計算に淀みがない真理を、改めて気づかせてくれたラヂオ体操の習慣を、それを始めた切っ掛けになったコロナを、奇妙な話、ありがたい事だと思ふ昨今である。

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