其の三 海沼實の世界

テレビがまだ無かった頃、子どもたちはラヂオから流れる歌に痺れたものだ。今までにない調子の、もしもしカメよ♪ とも、モモタロさん♪ とも違ふ、どこか浮き立つような旋律の歌が流れるのを心待ちした。カイヌマミノルとかカワダマサコとか、オトワユリカゴカイとかの名前は聞いても姿は見えなかった。

私はそんな子どものひとりだった。カイヌマミノルが作曲家の海沼實でカワダマサコが童謡歌手の川田正子だと知る頃には、そんな歌を数々歌い覚え込んでゐた。音羽ゆりかご会は子どもの合唱団で、一連の海沼メロディーの揺籃(ようらん)の場だった。

海沼實は「浜辺の歌」の成田為三の弟子、私が三つの頃に「お猿のかごや」で世に出た。音羽ゆりかご会は昭和八年、私が生まれる二年前、学生の身で結成した童謡合唱団だ。これを座標に世に送り出した子どもの歌には、戦前の「からすの赤ちゃん」、「ちんから峠」や戦後の「見てござる」、「里の秋」、「みかんの花咲く丘」など珠玉の名曲がある。

どれもこれも詩情溢れる旋律で、歌心を擽(くす)ぐられて口ずさむのに、海沼の旋律に勝るものを私は知らない。とくに「里の秋」は山田耕作の世界に入(い)らんばかりの調べで、唄うたびに幼時の感傷が蘇るのだが、歌ひ終わると八十七歳の心境をも、もろに受け止める深みがある。

♪里の秋とみかんの花咲く丘

里の秋は終戦直後の作品で、巷の苛立った心をどれほど癒したか、知る人ぞ知る抒情の世界だ。戦災に苦しむ子どもたちへ、海沼はさらにこの世離れの旋律を世に送り出す。夢のお馬車やみかんの花咲く丘などがさうで、現実から目を逸らすサブリミナル効果抜群だった。私はこのみかんの花咲く丘が愛唱歌で、遠くを望む心境から弾む楽興まで、様々に歌い分けては幼時を偲ぶ。これはわが女房どのとコーラスを分けて唄ったわが庵の愛蔵版だ。

♪里の秋 2022年1月録音
♪みかんの花咲く丘(二重唱) 2022年1月録音

海沼實は、川田姉妹(正子、孝子)に実子の美智子を加えるにあたって川田を名乗らせて川田三姉妹とし、音羽ゆりかご会を中心に戦前戦後の童謡界を牽引、童謡の神さまと言われた。江戸に根ざす日本調から脱皮した、洋風に洗練された節回しが魅力で、海沼メロディーは一代を画した。「お猿のかごや」や「ちんから峠」など、掛け声や手拍子を旋律化した手法は鮮やか、特記されていい。

♪蛙の笛

私がとくに好み、童謡となれば必ず唄ふものに「蛙の笛」がある。コロコロが巧みに織り込まれた旋律は、童謡を越えてひとひらの抒情歌だ。蛙が二匹いたらどうなると想像して唄った戯れ唄、合ひの手はわが女房どのだ。

♪蛙の笛(二重唱) 2022年1月録音

欧米の悪癖を刷り込まれて、いま日本の「音」が汚されてゐる。せめて子どもの世界に佳き日本の音を取り戻したい。この老爺の渋聲がお役に立てば本望だ。

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