究極の英語漬け(35)

スタインベック話しには後日談がある。楽しかるべき馬の話で言い知れぬ虚脱感を味わったあの日の講義を発端に、俄かに身の毛もよだつ英語漬けの日々が始まったのだ。英語漬けなどと気軽に云う勿かれ、英語好きが英語に浸るなどは愉しみこそあれ苦しみじゃないが、1000ページもの教科書を6科目分ひたすら読む(だけじゃない講義に備えて咀嚼しておく)ことの言いようのない重圧感はただ事ではない。英語が理解できるかの段ではなく、英語を手足に話しを理解し、議論し、意見を開陳することが求められているわけだから、読みでもたつくわけにはいかない。

勿論、そのあたりの覚悟はした上での留学だったのだが、いざ英語漬けの渦に巻き込まれてみれば覚悟などは甘い甘い、心構えも何もかも、一切が観念的だったことが身に沁みる事態になったのだ。2年制の単科大学だから日本なら教養学部で、一定の単位を積むべく各年数科目を取る。私はfreshmanで6科目を登録した。その6科目の「読書量」が殺人的なのだ。

赤い馬の国語を始め、歴史、人文、物理、心理、外国語にフランス語と都合6科目、初手の国語で喰らった一発を手始めに、ほかの科目でも散々な目にあったのである。英語が理解できるか否かは議論にすらならない。講義についていくには手掛かりは教科書だけ、勢い予習の読書が鍵になる。一心不乱という言葉を実感する日々になった。言わせてもらうが私は人後に落ちぬ猛勉家だ。読書量では人に負けない。流石に英語では速度も量もぐんと落ちるが、この際日本語並みにギアアップせぬことにはやっていけないと悟る。まさに臨戦態勢だ。一仕事した後の私との雑談をどうやら楽しみにしていたトムには気の毒だが、この際止むを得ない。言葉の不自由を理由に置き去りにされるなど到底堪えられない。

赤い馬の轍を踏まぬために、私の予習の読書量は飛躍的に増えた。先へ行って待ち構えることの安心感だけで、私の現場の姿勢がぐんと前向きになった。時に支離滅裂な英語で「意見」すら述べる気になった。予習で取り込んだ言い回しや読んだばかりの論旨のおうむ返しと知りつつ、ここで一言という場ですすんで発言した。

人文でギリシャのヘレニズムをテーマに話題が集中した時、sophisticationという言葉の意味合いを知るものはいないかという講師の問いに、どこかでひと言と狙っていた私は不用意に挙手をして口走った。

「Something like “complicated”?」

田舎の素朴に対する都会の洗練という語感なのだが、素朴の反対のうまい形容詞を思いつかぬ先に手の方が挙がってしまった。早とちりである。「ちょっと違うかな。」という衆議で私の不用意な発言は一蹴された。赤面の至りではあったが、あのエピソードはあの頃の英語と取り組む高揚感が思い出されてじんとくる。

なかなかの掘り出し物だったのがドノーヴィル先生の基礎フランス語だ。テキストの内容がごく簡単なフランス語で、それに対応する英語が苦労いらずのレベルだったことで、英語漬けの生活にはちょっとした潤いだった。教科書は会話風な対話形式のものと原語(フランス語)のコント集の二冊。英語漬けの真っ直中にいる私にはむしろ幸便にフランス語をせしめるいい機会になったのである。傍目には怪しげな英語でフランス語を覚えようという、何とも不思議な経験に見えようが、これが図に中り、たった2年のフランス語講座が傘寿越えの今なお活きている。つまり、フランス語の会話なり記事なりが薄らぼんやり見聞きできるのだ。外国語を介して外国語を覚えることのメリットは中々なものなのだ。後年、モーツアルトの書簡読みたさに「英語から入るドイツ語」などを弄びもしたのも、ボイシでのFrench through Englishの経験に味を占めてのことだ。

こうして開講半年の日々は究極の英語漬けで明け暮れた。あたかも言葉の人工透析で日本語を漉し取られているような曰く言い難い心境だった。息苦しくとも、未知の境地にいる興奮が新鮮だった。

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