矢作食堂のこと

実はそこで何を食らったか覚えがない、ただ愛想のいい叔母さんの笑顔とヤッちゃん元気と云ふ掛け声が耳に残ってゐるだけの、取り留めもない記憶だけで、何とも懐かしいある食堂の佇まひが鮮やかに浮かぶ。矢作(やはぎ)食堂と云ふ名前の飯屋の話だ。

九歳までを過ごした蒲田の南六郷は、私の東京生活の原点かつ唯一の場で、東京っ子と言はれるたびにたった九年で何が分かると突っ込まれないかと、内心ビクついていたものだが、この飯屋の記憶は九歳までの一瞬とは到底思えず、十数年間ほどもあったらう年月に思えるほどに親しく懐かしい。

もう何年前になるか、子供時代を過ごした場所を見せてやらうと女房どのを伴って南六郷を訪れた。哀れや、戦後の焦土に引かれた道筋は全く変はり、家の前の道も、それがT字でぶつかるはずの広い道路も見当たらぬ。矢作食堂は疾ふに消え、あの叔母さんを思ひだす縁(よすが)もない。

昭和十五、六年、私が幼時を過ごした南六郷にはものを食わせる店が珍しかったから、矢作食堂は珍重されてゐた。家の玄関を出て右へ、広い道路にT字でぶつかる角の右手にその飯屋がある。矢作食堂と入口のガラスに直に書いてあり、左手にカウンター越しに狭い調理場があり旦那が絶えず何かしてゐる様子が見え、出来次第料理をカウンターに並べる。例の叔母さんはカウンターの右手に居て、順序良くそれを客の待つテーブルに運ぶ。テーブルは四、五面ほどでそれぞれ二つずつ向き合って置かれ、お菜(かず)が旨いと云ふ評判で昼時などは大抵満席だった。

旨いと云ふお菜はみな小皿に盛り分けてあり、それも少量だが多彩だった。客によっては好みのお菜を三つも四つも持って来させてどんぶり飯で平らげる。皿一枚でいくらと清算するらしく、積み上がった小皿を叔母さんがしょっ中数えてゐた。その所作が面白く、子供の私は自分ならかうするだらうと様子を真似してはダチっ子たちを笑わせた。

ある日、私は母にせがんで矢作のやうなお菜を作ってくれるやうに迫った。どんなお菜かと訊くからこれこれかうだと説明するが、母は一向に呑み込めぬ。材料はと訊くから野菜と肉が混ざってゐると云えば、どんな野菜と肉かと折り返すからそれは分からぬと云へば、それじゃ作れぬとらちが開かない。

母曰く、店の飯などよりは家で作る方が旨いに決まってゐるからと決めつける。やだ矢作の奴が食ひたいとゴネる私に、痺れを切らした母はそのうち行って食べてみて覚えてくるから、と約束して私を黙らせた。母はさう言いながらついに矢作には行かず、私にも自分で食ってこいとは言わなかったから、遂に矢作のお菜は食わず仕舞ひだった。残念とも思はぬが、母も身罷って久しく矢作食堂の記憶も薄れ去ったいま、あのお菜はどんな味がしたのだらうと、妙に気にかかるのである。

ある日、食卓に肉らしきものになにやら野菜を焼き合わせたお菜が登った。それが、何と、八十年ほど前に矢作食堂で見たと思しきお菜に姿形(すがたかたち)が似ていたのだ。女房どのに訊けば肉はレバーで野菜は韮(にら)だ、と。私は咄嗟に思ひ込んだ。あの矢作のお菜は韮レバだったらうか、さうだ、それだったに違ひない。矢庭(やには)に矢作食堂のイメージが鮮明に浮かび、母が反故(ほご)にした約束の一言一句を思ひ出したが、今更詰(なじ)る術も無い。

その矢作食堂はもうない。あの叔母さんの甲高い声も、八十余年も前のこと、もう聞へもしない。

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