九分咲きの越生梅林

桃の節句が過ぎるのを待って、今日は梅の里越生に遊んだ。此処は言わずと知れた梅の名所、関東三大梅園のひとつ、天下の水戸偕楽園にこそ及ばぬが、三番所を争う熱海と秋間と曽我を抑えて堂々二番所の梅林である。

何よりの日和だ。辛気くさい雨に二日祟られて明けた今日、気温が5度も上がって遠出には打って付けの日だ。雛祭りのあれこれ話しに梅の花を添えて梅干しの噂も出ていたことから両天秤の梅日和、車も心なしか足が軽い。

越生は両親たちが眠るわが霊園の町、いずれはわが身もなどと戯れ言を交わしながらの往路は何ごともなく、鳩山町から西へ、先ずはいつもの「梅の里」(蕎麦屋)で腹拵えをして梅園への腹づもりだったが、着いて見れば何と客が数珠つなぎ。さては時を計り間違えたかと一時の思案。思い直して黒山三滝方面へ足を伸ばす。途中に何かあろうよという算段だ。

これから先は食い物の店などはあるまいと観念していた矢先、道端に小粋な珈琲店が眼に入る。店の名は「OKUMUSA marche’」と横文字だ。ままよ、サンドイッチなどで誤魔化そうかと車を寄せる。電信柱に黒い板に白文字で「純手打ちそば」という何気ない文句を横目で見ながら店内に入る。先客が四五人、珈琲にケーキで時を過ごす風情だ。

メニューを見る。おや、おいしそうな手打ち蕎麦があるではないか。千円だとあるから遊びではないぞ。愚妻ともども蕎麦っ食いだから、衆議一決、内心は珈琲店の蕎麦じゃどうせ、という邪心を伏せて二人ともクルミ蕎麦なる代物を注文。あらぬ話題で時を殺す間もなく蕎麦が来る。箸なしで「どうぞ」のお笑いが愛嬌だ。

余計なことは措いて結論をお話ししよう。このクルミ蕎麦なるものが、そのか細さと喉越しの好さが絶品だったのだ。聞けば二八だという。そうだろう、生粉ではとてもここまでは繋がらぬ。二粍弱で箸先一尺は下るコシだ。ペースト状のクルミは指先ほどの塊でネギの側にある。先ずは素でひと箸、その後にお好みでクルミをいれてくれろ、とのご託宣。言われた通りに手繰ればこの蕎麦は只ならぬ味わいが引き立つ。場違いなところで場違いな蕎麦を食うという、何とも不可思議な一時ではあった。

主人に一くさり蕎麦話をして、彼岸にはまた寄せて貰うと店を出る。いや、怪我の功名と言えるかどうか、梅の里ですっぽかされた結果のことと思えば、世の中、これでなかなか捨てたものではない。

さて、本題の梅林が後回しになった。一二の駐車場が満杯でやや離れた三つ目の駐車場へ。週日だが相当の人出だ。花は九分咲き、中には早咲きと思しき樹がすでに花を散らしていたが、一望して九分咲きの見頃だ。桜じゃないから散り際などの美学は梅にはない。膨らんで今にも裂けそうな梅の花ほど気をそそるものはない。

梅の木は老いると幹がねじれ始めるとか。越生梅林にもそんな老木がある。奇体なものだが、目の前にすると老いた梅の木のうめき声が聞こえるようで、わが身に引き替えてしばし無言。

あれがみな梅干しになるのやら、などの戯れ言を叩きながらの帰途、わが家には縁の深い越生の町にもっとしげしげと通いたいものだと感慨に耽る。此処に比べれば、わが庵の町桶川の何と起伏のないことよ、と嘆くことしばし。終(つい)の棲家(すみか)の越生を沁々と肌で感じた一日であった。

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