読書について

世に「本の虫」ということを言ふが、考えてみれば讀書ほど高尚な趣味はないと思ふのじゃ。時間の過ごし方には萬策あろうが、知恵を磨きながら時を過ごすなどはその最たるものじゃ、と改めて思ふ。わしは田舎育ちで、昔のころじゃから學校へは田圃道を跣足で通ったもんじゃ。それを、とうに亡くなった母方の祖母が遠目にわしを見て、「あの子は、まぁ畦道をよく本讀みながら歩けるもんだ」と言ったとか。そうなんじゃ、覺えている。本に目を奪われてのこと、歩き慣れた畦道ながら、よくまあ不規則な曲がり具合をこともなげに辿れたものじゃ。爪先に目でもついていたか、の如くじゃった。いや、幼いころの思ひ出じゃ。

そう、その讀書じゃがの。わしには人には言えぬ動機付けがあるのじゃ。世迷いごとじゃて、その辺りの心底を明かしてみようかの。よくまあ本を讀みなさる、と人に言われる。確かに本を開かぬ日はなく、三冊は並行して讀んでいるほどじゃが、なぜ絶えずそうなのか、と問われると答えるのがやや気恥ずかしいのじゃ。ええい、ままよ、吐いてしまおうか。

例えば、物思いに沈む折に浮かぶあれこれを深めようと本を漁る、ということも、わしにもしばしばある。じゃが、わしはかなりの割合で、人様との議論、口論で受けた己の傷を癒やすために、いや、さらにその傷を逆手に取って、その折の議論を蒸し返して溜飲を下げたいばかりに本を漁る、という陰性な動機がどうやらあるのを気づいているのじゃ。生來の勝ち氣なのじゃな、わしは。言ひ負かされるのが死ぬよりつらい。そうじゃ、理論武装ならぬ議論武装のために本を漁る、などは思へば読書道に悖る態度じゃ。人には言えぬ、とはこの辺りの心の負ひ目じゃ。

だが、それはほんの一面じゃ。わしは兩眼の視力が歪むほどの讀書をすべて「議論武装」に費やしたのでは勿論ない。一册の書を紐解いて讀み進む。讀み進む最中に魅力的なテーマに突き當たる。迷わずそのテーマを追って新たな一册を開く。また突き當たる。そうして、盛りには五冊の書を並行して讀んでいたこともあるのじゃ。勢い、わしの讀書は拡散した。

そして八十年、わしは老いたのじゃ。いまは、わしの讀書は収斂し、テーマは人心より自然心、讀書に疲れて遠く眼を馳せる向きは西方じゃ。讀書はいまや来る二十年を生きる道程を照らす灯火になるのじゃ。願わくば、自らその一つ二つを灯しても見たいのじゃ。

ご機嫌よう。

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