先日、ひとりの卓越した知識人が鬼籍に入られた。渡部昇一、近年稀に見る碩學で、學問の上の業績や十五万といわれる蔵書を抱える書架の話しはさておき、この御仁の學の垣根を越えた博學は、往時の南方熊楠を思わせ、その洒脱な語り口はわが愛する志ん生をも偲ばせるほどじゃった。
わしは、この御仁の著作を讀むたびに、口説(くぜつ)に耳を傾ける毎に、しみじみ思うたものじゃ。その論旨、口説が醸し出す独特な「知の世界」、それを紡ぎ出す巧みな「筆舌の藝」は、この御仁の並々ならぬ天才を窺わせるに余りあるものじゃった。
身罷られるほぼ直前に、この御仁はテレビ番組かYouTubeか、某女優を相槌に「書痴の樂園」なる連続企畫に出演されて、その藝を巧まず披瀝された。あれは「白痴作りの箱」に時ならぬ清々しい一滴を注ぎ込んだ名企畫で、わしは数十回のシリーズを愉しく拝聴し、毎回共感の愉快を味わったものじゃ。啄木を悪し様にこき下ろし、川端は「文章が下手だ」と斬り捨てた場面では、この御仁は悪口雑言とも取られかねない科白をさり気なく、飄々と言って退けた。いずれもある一面を衝いているだけに、どこか快感に近い刺激を覚えた記憶があるのじゃ。
渡部昇一。人の世の無常とは言いながら、如何にも惜しい人物を失ったものじゃ。いま将に天皇退位をめぐる動きが曲がり角に差し掛かるとき、「退位」あるべからずと正論を唱えていたこの御仁が逝かれたことは、同じ思いのわしの心情はさておき、天皇制の何たるべきかを真摯に思う者どもには、ここぞの支えを失った思いが深い。
この御仁は、敬虔なキリスト者でありながら神道への造詣も深く、日本の歴史を独特の薬籠中に収め、古事記から語り起こして天皇制はかくあるべし、と鋭く喝破してこられた。別稿でも書いたのじゃが、天皇は伊勢の宮司にも準えられるべき御身、決してわれら匹夫の隠居心に安んじることなく、ひたすら一代を全うされたしと願うわしは、この御仁を失った今、一入(ひとしお)無力感を覚えるのじゃ。
この御仁は英語學の大家じゃ。日本人にして英文法史の嚆矢をものされ、日本に渡部ありと謳われた碩學じゃ。その英語ならわしの世界でもあり、この御仁の英語をめぐる書きものはほぼ讀み盡くしておる。「英文法を撫でる」などはキンドルにも入り人口に膾炙しておる。
わしは思うのじゃ。英文法は習熟してのち忘れ果てよ、という。言わば、三つ揃いの背広を着こなし切れてのこそのカジュアルウエア、ということじゃ。この御仁の英語話に常に流れる通奏低音は、実はその辺りの呼吸じゃ。思い立って「二刀流翻訳術」なる一巻をキンドルに挙げたのも、なにを隠そうこの御仁の息遣いがあってのことじゃ。
渡部昇一。
この御仁を失った痛みは、拳闘のボディブロウに似て、じわじわと時が経るに従って効いてくるのじゃ。志ん生、文樂、圓生、小さんが逝って落語が先細ったように、日本の「知の世界」はこの御仁の物故を境に硬直化するのでは、と案じるのは、なにもわしひとりではあるまい。以て瞑すべしじゃ。
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