其の一 お国のために

南六郷と云ふ一角は、何の変哲もないところで、子供たちはせめて近くの六郷川で水に戯れ、遥か西方にある六郷神社に遠走りするぐらいが関の山だった。すばしっこい私は、羽田の飛行場にもしげしげ通って、赤とんぼを眺めては幼い感慨に耽ったものだ。

赤とんぼと云へトンボではない。黄色い双翼の練習機で、さう愛称されて子供たちには大人気だった。いつかは僕も、と飛行兵になる夢で胸を膨らませたものも多い。かく言ふ私もその一人だった。飛行兵になるんだ、それも海軍航空隊に入るんだと云ふ幼い思ひは、五つ六つ頃に意味も分からずに芽生へてゐた。お国のために尽くすんだ、と云ふ無邪気な執念が根付いてゐた。

赤とんぼと呼ばれた九三式中間練習機

そのころ、そんな子供たちを励す唄が巷に流れてゐた。今でこそ小さいが大きくなったら、これこれかう言ふふうにお国のためになるんだ、と云ふ歌詞はなかなかインパクトがあった。

♪お山の杉の子
                 2021年8月録音

この唄が流行り、それみんな杉の苗を植へやうとなった所為で、後年花粉症の元が国中に散らばったのは壮大な皮肉だ。杉の子に擬(なぞら)へた子供たちは、少国民として一端の社会性を期待され、日々の行いの中にあれこれと社会参加の場面が用意された。ゴミ掃除は当然のこと、衛生のために一匹何銭かを出して子供たちにネズミ退治を奨励した。資源を欠く国のために、子供たちは鉛筆消しゴム帳面など、学用品の節約に励んだ。それがお国のためになる、と子供心に燃へたのである。

昭和十年の生まれだから十六年は六歳、その年の暮れに真珠湾攻撃があった。昨今の六歳児はいざ知らず、六歳の私はもう一端の半大人だった。ついに日本が立ち上がったと云ふ感慨をある意味では大人以上に素直に感じた。ラジオに流れる大本営発表を聞き、戦闘状態に入れりとはどう言うことか、と親父に尋ねた記憶がある。戦ひを始めたと云ふことだと聞いて、とうとうやったかと身が引き締まったのを、昨日のことのやうに覚へてゐる。お国は遂に決心したのだな、と云ふ思ひは、お国のために頑張る少国民としてごく当然の感慨だった。

南六郷には国民学校の三年まで、早上がりだったから九歳までを過ごした。国民学校とは、戦時の小学校がさう呼ばれてゐたのだ。入学が開戦後一年目、三年で埼玉へ疎開するまでの三年間は将に戦時下で、朝な夕なに国民学校の勉強は戦時色に染まった。

巷には数多の戦時行進曲が流れ、それぞれに心の鉢巻効果があったが、私は子供心に「母の背中に小(ち)さい手で・・・」と云ふ詩に惹かれて、日の丸行進曲をつとに好んだ。

♪日の丸行進曲
                  2021年8月録音

見よ東海の(愛国行進曲)の爽快、海の民なら(太平洋行進曲)の豪快も勿論好きだが、振ったあの日の日の丸と云ふ情景にある経験を重ねて、私はこの行進曲を愛唱した。親父に聞いた:「ジョウトウて何のこと?」文字より音から入った言葉がまだ呑み込めぬ幼なさだった。

ある経験とはかうである。家のご近所から出征兵士が出る。その人を雄々しく送るためにと乞われて、私は日の丸の小旗を振って大人たちに大いに喜ばれた。お国ために働く兵隊さんのために日の丸を振る、女の人たちが千人針をひと針縫ふ心持ちに通じる晴れがましい感覚を、その時覚えた記憶がある。母の背中からではなかったが、そのとき日の丸を振った誇らしい気持ちが、あの行進曲に乗り移ったのだらう。

言語感覚がどう育つものかは俄かに断じられぬが、私の場合、幼児に聞き覚えた唄どもに添えられた詩の言葉遣いが大きかったように思へてならぬ。この唄にして然り。小さい(ちさい)手で振った日の丸もよし、日の丸が敵の城頭に高々と翻るなどは、思ふだに胸高まる情景だ。幼時愛読した日本雄辯会講談社の講談全集に負ふところが多い小粋な語彙もさることながら、私は言葉の妙の何たるかをそんな言葉の綾の数々から知らぬ間に学んだ。

三年の時、学友の柳と本多と三人、選ばれて学級文集の編集に携わった。担当の平山真砂子先生は、かう言われた。

「みなさんがお国のために働くとは、一生懸命に勉強することです。早く大きくなってお国のために戦ふことです。」

みんなの心をまとめて素晴らしい文集を作って欲しい、とのお指図だ。三人は勇んで学友たちを励まし、自分たちも幼い筆を振るった。それらしい綴方が集まっていざ表紙を考える段になって、相棒の本多と柳の意見が私のそれと真っ向食ひ違った。

柳「富士山や桜で表紙を飾らうよ。」

本多「さうだね、題は『みんなの文集』なんかどうかな。」

柳「ぼくら少国民なんだから『少国民の声』とかは?」

私は二人を遮って頑として言い張った。

「ぼかあ違ふと思ふな。戦ってゐるお国のために少国民も頑張ると云ふ感じを出したい。絵は軍艦か飛行機、題は絶対『撃ちてし止まむ』がピッタリだ。」

疾ふにぼやけた記憶を辿れば、そんな言い合ひだった。二人は呆れ顔に私を見詰め、ややあって文集らしく無いとか、落ち着きが欲しいなどと、盛んに苦情を唱へた。私は、先生のお指図を盾に、航空部隊の編隊飛行の図と撃ちてし止まむの題に拘った。

三人は互いに譲らず、議論を職員室に持ち込み平山先生の裁断に任せた。先生は三人の顔を順繰りに見回されて、にんまりされた。ひと呼吸あって先生は、これはこちらがいいでせうと私の構想を取り上げられた。お国のためを思へば、これでこそみなさんの気持ちが素直に現れますと言はれて、三人の肩を等しく叩かれた。

文集作りで幼き激論を闘わせた両君のその後をまったく知らない。名前はど忘れたが、本田君はわが家の近所の町工場の息子だった。柳君の名前は、何と、一字で憶(檍か臆、かも知れず判然と記憶していないが、字映りからかう思ふ)、名前の小粋さと腺病質っぽい風情が今なお思ひ浮かぶ。

こうして文集は、私の独断で体裁が決まり、学年切っての評判を呼んだ。その時開花した私の幼いお国のため感覚は、傘寿越えの今も趣こそ変われ、脈々と生きてゐる。

本稿はここで筆を擱(お)く。その余韻に、幼き頃の愛唱歌を老爺声でひと節・・・。因みに、日本最高峰の頂きは、頭(かしら)に点を載せぬもの、曰く、冨士山(ふじの山)。

                  2021年8月録音

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