靖国が泣いていた

四十度にあと二、三度という猛暑がふっと途絶えて、梅雨の戻りか秋の訪れか、このところ時ならぬ快適な日々が続いている。迎え火から盆棚の設(しつら)えなどお盆行事の最中(さなか)に靖国に詣でるのが、この時期のわが家の年中行事だ。

終戦の日八月十五日、この日は愚妻を伴って例年猛暑を押して参拝者の長蛇に加わるのが常だ。例の冷風器に横顔を煽られながら、汗を拭いながらの参拝は、むしろ快感ですらある。が、今年の靖国は様変わりしていた。猛暑はどこへやら、これでもかの雨が降りしきり、傘の波の向こうに靖国の社(やしろ)が雨中に煙っていた。傘を閉じ地面に横たえ、雨中に二礼二拍手一礼する人びとの後ろ姿は見るからに潔(いさぎよ)く、雨中参拝もまたよきかな、の感慨が新鮮だった。

余談だが、八月十五日の靖国詣でには余録がある。三年ほど前のこの日、大鳥居の梺(ふもと)でふと声を掛けられたのを切っ掛けに、わたしはプロカメラマンS氏の知己を得た。髭に作務衣の出で立ちが目だったそうで、三歳ほど年下の彼はわたしという被写体を甚(いた)く気に入ったらしく、わたしも白黒専門の粋な写真家の風情に惚れて、牽牛織女さながらにかれこれ三年ほど、愚妻ともどもこの日に靖国でS氏に出逢う愉しみを味わっている。

雑談でS 氏曰く、「この日に靖国で雨が降ったのは十年振りかも」。そういえば、猛暑快晴の特異日かと思うほど、終戦記念日の靖国で降り込まれた覚えがない。調べて見ると、二〇〇四年のこの日に雨が降っている。十三年ぶりの降雨だったわけだが、傘を差して参列者の波に流されながら、わたしは雨に煙る社の背景にアジアの地政学的な現状、足元の危ういアメリカの姿、虚を突かれてへたり気味の安倍政権の動きが重なって、前景に絶え間なく降る雨脚がなんとも意味ありげに見えてきた。

靖国は泣いている、わたしはそう直感した。虚勢を競うチキンレースに右往左往することなく、いまこそ國の立ち位置を定めねばならぬ時に、肝腎の舵取りがままならぬわが国の優柔を、靖国は嘆いているのだ。この社に祭られている魂はこの國のために「失われた」のではなく「捧げられた」存在だ。だからこそ、われわれはその心に報いねばならない。

靖国に詣でるたびに、ここに祭られた魂に向き合うたびに、わたしはこの國の有り様如何を問いかけ、自分の生き様の如何を伺っては自戒する。

今日、わたしは降りしきる雨に靖国の涙を見た。

なすべきことをなしえぬ心許なさ、改めるところを改め得ぬ不甲斐なさ。老いたいま、かつて見えなかったものが見える。摩訶不思議な心境だ。今日の思わぬ雨、十三年ぶりの靖国の雨は、わたしにもう一つ考える糧を与えてくれた。

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