五十年余も前、先の連れ合ひの里を広島に尋ねた折の話だ。未だ四十に満たぬ若輩の私が、老母の懇願に絆《ほだ》されて、さる娘をわが弟Kに娶《めあは》せる羽目になった。正しくは娶せるべく口を聞いては呉ぬか、つまり仲人の労を取って下され、と揉み手してまでの頼みだっだ。連れ合ひも脇で言葉を添える強談判に戸惑ひながら、先づは本人の心得次第と生半可に話を途切った。軽からぬ荷を負わされたのである。
聞けば、さる娘とは連れ合ひの実妹の嫁した先の連れ子だと云ふ。人柄を問へば兎角の故障もなく、話ぐらいはとの連れ合ひの助言を受けて日を措かずKにその話をした。呉々も己れの判断でせよと戒めを聞いてか聞かずてか、鯔《とど》のつまり彼はその話を承けその娘Mを娶った。その間の段取りの過程で、娘の父親には一再ならずよしなにと懇願され、その都度私は背に負ふ荷が重みを増した。今にして思えば、あの物理的感覚がそのまま後に、”ある”ストレスに繋がった。
Kは性格が柔和で争ひごとを嫌い、鼻先で風を切る質《たち》の私を敬して遠ざける気配が常にあった。彼が諾々と嫁取りを決めた裏にそんな斟酌が働いたか否か、今してみれば一切分からぬ。呉々も己れの気持ちでと押した念を忘れ果てたとは思ひたくないのだが、その後の経緯からさもありなんの気《け》もなくもない。
あるストレスの兆候は一年足らずに顕れた。実家でのある行事にKが独りで現れ釈明して曰く、嫁のMが体調で来られぬと云ふ。その折は体調が悪いならやむを得まいでことは収まり、家族からは兎角の不平も唱えられなかったが、微かに拘《こだは》るKの様子に私は何か不自然な因子を感じ取った。その折は看過したものの根差した疑念は容易には拭きれぬ。Mの父親が連ねた只ならぬ懇願の言が蘇る。が、母の様子には兎角の異色はない。ならばと私はその場を遣り過した。
ストレスの萌芽はやがて茎となり、はっきりと根差すことになる。その後の家族行事にMが同行を拒むと見えKは常に独りで現れ、何時かなそれが習慣的になった。母もそれと気付いたが、母性の本義を知らぬ者には到底分かりかねることに、何と、母はそれもよからうとKを労《いたは》り、Mを諌《いさ》めんとの私の進言を頑《かたく》なに抑え込み、Kの思ふままにしてくれろと懇願するではないか。広島での様々が蘇り、その折過《よ》ぎった薄らぼんやりした不安感が現実となり、私は飄然とわれに返る。あの時の老母の哀願にMの親父の丁重に過ぎる懇願の言が交織して私の舌を取り抑え、私の一本気を萎えさせた。Mに潜在する異様な質に気付いたのだ。
その後の私の心象は絶えず揺らいだ。他人事に拘《かかずら》う愚を笑っては敢えて無意識を装ひ、己れが関わった実弟の嫁取りの不調を嘆き、如何にすべきやの懊悩に時を忘れる日々があった。負ふた荷の重さに、さなくだに弱まる膝がぎしぎしと痛むかの如くだった。K夫婦の実情を解きほぐしたい矛を母に抑えられて、あれこれを推測を逞しくする年月が流れた。その間に夫婦に授かった一人息子が浦高に入り、我が後輩になった出来事があって和みもしたが、懊悩を和らげるには程遠かった。
そして平成八年、父が身罷りその葬儀にMがKに伴はれて参席した。お座なりながら挨拶も交わし、これを機に実家への足も繁くならうかと思はれた。Kのために良かれとの思ひから、私は挨拶言葉に交えてMの心理を和める一言二言を交えた。しかし、そんな気遣ひは奏功せず、Mは後年、平成二十二年に逝ったの母の葬儀には姿を見せたが、それを潮《しほ》に実家の敷居を跨ぐことはなかった。
そこに至って私は、Kの嫁取りに関わったことを深く後悔し、面詰《めんきつ》をこそせぬが嫁ひとりを差配できぬKの不甲斐なさを嘆き、切歯扼腕《せっしゃくわん》した。そしてさらに年月が流れ、百歳まで生きると豪語する己れが数えで米寿に達し、四つ違いのKがすでに八十四歳の老爺と化してゐる現実を知り、至らぬ嫁に苦労する様を哀れに思った。根が柔和なKはそんな嫁を半ば持て余してをるに違いない。心の奥底でそんな嫁を娶せた不徳を詫びた。
話を飛ばさう。
先月、至らぬ嫁のMが死《し》んだ。仏に鞭打つ言葉遣いをご容赦願いたい。知らせを聞いた瞬間、私はこれで安堵した。これでKが救われる、気苦労が一気に消える、と。日を措かず近親のみの葬儀が整えられ、どこか気が重い私はMの親父の言葉に背中を押されて、家内を伴い参席した。Kは深々と腰を折って謝した。葬儀は坦々と続き、導師の誦経から焼香が済み、いざ納棺となる。
ことはその折に起こった。亡骸に献花する段になって私は思わぬ光景を目撃する。参席者が三々五々献花する間、KがMの死に顔に触れては顔を背《そむ》け、背けては触れ直す所作を繰り返してゐる。窶《やつ》れた老爺の風情だけにその所作がひときわ鮮やかに浮き彫りされる。
私はその光景に釘付けになった。
持て余した老妻を扱う所作ではない。これは紛れも無くこの世を去った伴侶を労《いた》はり労《ねぎら》う物腰だ。その瞬間、私の心象は凄まじく転回した。Mが去ってKは救われ安堵した、とは何事。様々な事柄が去来する。K夫婦はそれなりに人並みに添い遂げたのだ、あれ程まで悔やんだ娶り話はむしろ高砂話しだった、わが実家には不実と見えた嫁がわが弟には思ひ掛けなくよき伴侶だった、と。
その光景を見届けるや、私は改めて一掴みの花を携えて棺側に寄り、Mの胸の辺りにそれを盛り付け、内心しみじみと労りの言葉を添えて見送った。その瞬間、私は安堵した。Kにさしたる苦労もなかったらしいこと、わが実家への不実は性格的な欠陥の現れと思えばいいこと、Mの顔を触れる所作に夫婦の他には見えぬ絆を見たこと。Kはいっ時の所作で卒寿間近の私に深い満足を残してくれたのである。
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