梟翁のいない桜の季節

今年の桜は開花が早く、3月半ばで七分咲きの木がちらほら見られた。先週車を走らせて桜並木の土手を通ったとき、亡き夫・梟翁と毎年ここの桜を眺めていたことを不意に思いだして無性に悲しくなった。明るい陽光の下で子供連れの家族が賑やかしく歩いている姿と、一緒に花見に行く人を失ってしまった私との大きな落差、それが悲しみを増幅させたことも大きい。

私たち夫婦もご多分にもれず、毎年欠かさず花見を楽しんでいたものだった。
出会ったばかりの頃に行った千鳥ヶ淵の桜、何度も通った砧公園の桜、素晴らしかった弘前城の夜桜、ここ数年通った航空公園の桜・・・そして道すがらに車中で一緒に楽しんだ桜並木の数々。その時々の景色や交わした言葉がたっぷりと心に残っている。

敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花(本居宣長)

願わくば花の下にて今日死なむ その如月の望月の頃(西行)

私でもこのような歌は何度も接しているうちに誦(そら)んじるようになった。他にも桜を詠んだ名歌、名句は数知れない。日本人にとって、桜は本当に特別な花なのだ。桜が咲けば、古(いにしえ)から桜を愛でてきた人々の悲喜こもごもの思いが地上に満ち、散るときは、花びら一枚一枚にその思いが乗って飛んでいくような気がする。

最近会った友人が、87才のお母様が吉野の桜を観たいというので4月に行くと話していた。名にしおう吉野の桜を私はまだ観たことがない。そういえば梟翁はよく、「いろんな桜の名所に行ったけれど、やはり吉野の桜が一番だな。ソメイヨシノは所詮人の手で植えられたものばかりだろう?でも吉野は山全体に自然の山桜が咲くんだからなぁ。山桜は花と一緒に葉も出るんだ、それがまたいいんだ。」と言っていた。そして、浦高の修学旅行で奈良と吉野に行き、その紀行文がクラスで唯一国語の先生にほめられたという自慢話が続いたものだった。

あれから一週間たった。今日は花冷えの雨が降っている。灰色の空の下、満開になった桜の木々がくすんで見える。今の私には、花冷えの桜のほうが晴天の桜よりも落ち着いて愛でることができることに気がついた。以前は青空に映える桜が一番だと思っていたので、こんな風に感じることに我ながら驚くのだが、もちろんそれは梟翁との花見の思い出が重ならないからだとわかっている。何年か経てば、再び手放しで桜の美しさを楽しむ事ができるだろうか。そのような日は果たして来るだろうか?

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