労働か修行か

あるいは人権を寶(たから)とも思う徒の顰蹙(ひんしゅく)を買うかも知れんが、どうしても一言吐きたいことがあるのじゃ。人の働きと報いという話、真宗大谷派で、ある二人の僧侶が伽藍内の作務への「報酬」を求めて裁判沙汰まがいの訴えを起こし、なんと数百万円を勝ち取ったという一件なのじゃが、諸賢はいかが思し召されるか?

事情を聞けば、その男性僧侶二人が未払いの「残業代」を求めて寺を訴え、二〇一三年十一月から今年三月までの計六六〇万円を受けとったという話じゃ。非正規雇用だったとのこと、「時間外労働」や「深夜退勤」が多いときは計一三〇時間だったとのことなどなど、一々ごもっともな背景があり、間に入った「きょうとユニオン」(労組じゃろうな)の働きもあり、大谷派は「労働實態を把握できていなかったことは一番の問題」として、支払いに応じたのじゃが……。

人権を持ち出し○○法などに照らせば、一見穏当なお裁きに見えて、わしには如何にも解せぬ何かが残るのじゃ。わしは日頃から聖観音を頼り、よろけながらも諸経を読み、日頃から帰依の心を磨いておる。いわんや、僧籍にある二人にして、修行たるべき作務を唱えて「労働」とするは何たる愚昧、何たる無恥、何たる……。

そう気色ばりなさるな、とのお言葉が聞こえる。「多額の残業代だ、払ってやれ..」の外野の弥次りも耳に入っておる。じゃがな、その理屈は充分に分かった上での一言なのじゃ。線香も立てぬ市井の輩ならそれもよかろう。利益を追う企業で働くものが、労働を賃金に換えるに何の故障があろうか。じゃが、僧侶の働きは代価を求めるべき労働ではないのじゃ。それは心の高みを求める修行なのじゃから、報酬を求めるのは筋違いじゃ。「修行の代価は来るべくして来る」もので、法に訴えて勝ち取るものでは更々ない。

それにしても、仏法の乱れが語られるようになって久しい。割れ鍋に何とやら、仏法の信者たちにしてから、すでに昔日の面影はないのじゃから、このたびの一件も推して知るべきかも知れぬ。僧侶が労働と修行を取り違えて、伽藍内の作務を労働と捉え、超過すれば手当を求め、気に染まぬとなれば寺を訴えるさまは、世に言う末法か。

思えば、先の大戦に敗れた日本は、戦禍を優に超える大きなものを失った。人は「本分」を喪失した。人権に名を借りた我執が法という衣を羽織って世間に横行している。当の大谷派の僧侶二人は、僧侶たるが故に「修行」に甘んじるべきじゃ。時あたかも天皇が、巷なら隠居にあたる退位に走らず、伊勢神宮の宮長(みやおさ)としての神職を果たし遂せて欲しいと願う思いに重なるものじゃ。嗚呼、何をか況んや。

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コメント

    • ねこ
    • 2017年 6月 30日

    そもそも 浄土真宗でいう行は自分が修するものじゃなくて阿弥陀仏の大行なんだからさ。大谷派の僧侶は誰も自分が修行してるなんて思ってない。

      • Wye Shimamura
      • 2017年 7月 04日

      ご明察。だが思うに、弥陀の誓願への縋り賃として伽藍の掃除ほどは黙々と願いたいものだが、如何?

        • ねこ
        • 2017年 7月 07日

        賃も必要なし

        • ねこ
        • 2017年 7月 07日

        感謝はする

        • Wye Shimamura
        • 2017年 7月 08日

        絶対他力、合掌。Life Shiftの徒花ならさもありなん。

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