歩け歩け、歩け歩け

九日(くんち)餅は搗くな、という土地のゲンを口実に、今日二十九日、暮れの忙しいなか私を歩かせようと、家内が軽い遠出を企んだ。大掃除の時を惜しんでまでそんな企てを巧んだにはわけがある。膝痛を理由の運動不足、それに先日の前立腺癌事件で竦(すく)んだ私を無理矢理歩かせようとの彼女なりの配慮だった。

そこは意気に感じる私のことだ。へたる気持ちを駆り立ててよっしゃということになった。上野の美術館系はどうだ、博物館はなどと案がいくつか出たがどれも休館、足を伸ばして品川の水族館ということに。暫く前までは、われわれは城ヶ島のホテル下を縄張りに魚釣りに血道を上げた夫婦である。活きた魚はいい、渋谷新宿じゃない品川ならそう人も出ていまい。電車も久し振りによかろうと、軽いノリで歩く気になったものの、これはじつは迂闊だったのだが、それは後の話だ。

いま、わが里の桶川からも、昔ながらの高崎線が上野を越えて東京、品川からなんと熱海まで直に通じている。久し振りだからと余分なお宝を払ってグリーン車に乗り出発進行、私にはほぼ三年振りの列車だ。顔には出せぬが内心ふわっとした快感を味わう。列車も悪くないな、これなら京都でも松江でもなどと軽口。膝も前立腺も明日どうなるものでもなし、と達観か諦観か、久し振りに窓外に回る景色を愛でながらしばし微睡(まどろ)むこと数十分、品川に着く。駅頭、意外の人波にぎょっとする。十年前と様変わりした品川がそこにあった。歩きに来たはずが人も見に来たとは、と臍をかんだがもはや手遅れ。

プリンスホテルへ向かう坂道が意外にきつい。それと見せまいという意地がそれに輪を掛けて、目途の水族館にたどり着いた時はわが脚力はほぼ目一杯、館の入り口の光景を見て立ち竦んだ。魚を見るはずの水族館が子供たちの海だった。パンダ騒ぎで上野行きだろうと、読んだつもりが大向こうから外れたのだ。

互いに無言で見つめ合うこと暫し、魚の代わりに子供たちを見る位ならいっそ泉岳寺へタクシーで、などと迷案が飛び出す。折角だからと予定通りに二千なにがしの入館料を払って、潔く子供たちの波に乗る。そして、それからがなんとも締まらない経過に。

魚より子供、などと戯れ言をいっていたのが、なんと現実になる。最初のコーナーはいくつもの水槽が並び、それぞれ活きた小魚とCG魚とが二重写しに見えるような仕掛けになっている。子供たちが前に群がって、CG魚を指で操作しては水槽のガラス面にさまざまなデータを発生させては金切り声を上げる。ちょっとした魚類学習のツールになっているのが奇妙に面白いが、これは最早水族館ではない。何をか況んや。

生の魚はこれだけか、などとぼやきながら数歩、ふと一角に床から天井までの大水槽が見えた。美ら海水族館の超ミニバージョンになぜか安心。そのあとトンネルのコースもあって、まあ曲がりなりにも水族館か、と納得。さらに、イルカショーの現場に座り込むに及び、これで二千なにがしは元が取れたかと苦笑した次第。

そう、このイルカショーがなかなかの見せ物で、よく調練された五、六頭のイルカが直径三、四十米余の円形プールを処狭しと疾駆、何やらの合図があるのだろう、イルカたちは組みになってそれぞれ十米も上空へ飛翔する。なかなかの芸だ。

ひとに揉まれながら、さらに人波任せにかなりの距離を歩く。雑念に囚われずに歩く時間は、今の私には結構な薬なのだ。気にするなとは無理な話しで、体内に異物が巣くっていることに無関心でいられる筈がない。要はそれに敢えてアンティテーゼを発生させて、雑念を相対化するに如くはないとしたものだ。都会人が喧噪の中に立ち込んで孤独を癒す心理に相通うところがある。帰路、駅までの坂道は気なしか膝には響かなかったのが、せめてもの救いだった。

イルカに元気を貰ったからには、ままよ、人混みの極み夕刻五時の東京駅あたり、昔馴染みの地下名店街で手頃な夕飯はどうだという話がまとまる。品川から東京は何ほどのこともない、田町、浜松町…と繰って東京駅で降りてみれば、年末の帰省客で人波は恐ろしいばかり。それは承知、覚悟の上と波を縫って東へ東へ、地下の名店街に着いてみれば昔ながらの店々。某中華料理で満腹、ヨックモックの喫茶で口直して頃合いよしと帰途につく。

名だたる東京駅の喧噪は、帰りのグリーン車に乗り込んだ瞬間にふっと消えたが、下(お)りのような気疲れはしつこく残った。歩くことは体に大切という家内の諭しを何とか生かした満足感は、しっかり残った一日だった。

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