救ひの地、アイダホ:その2(50)

六十年余後のいま、なお記憶に鮮やかな出来事がある。パンデミックと左傾化の嵐只中のアメリカで唯一の救ひの地とされるアイダホの原生の気を感じた思ひ出だ。

ボイシに着いて男子寄宿舎にひと部屋を与えられ、憩ふ暇もなく、秋からの学費作りに構内の作業に追いまくられてゐた。そんなある日、チェフィーご夫妻から近くの彼方此方を見せたいから時間を都合せよとのお達しがあった。先生の運転で、息子のバートが同行、都合四人のドライブとのこと。一も二もなく、トムと相談して一日空けてもらった。

先生の車はスチュードベーカーといふ奴だった。自動車ならフォードだけだと承知してゐたから、重々しい名称の車を見た時は余程曰くのある車に違ひないと思った。折から自動車産業が有卦(うけ)に入ってゐたアメリカでは十指に余る車種が知られてゐたのだが、門外漢とは悲しいもの、私は一向に疎かった。

付いてきたバートはチェイフィー家の総領息子で、あの時は十代に満たぬ少年だった。後年といってもぐんと最近の2012年に、他用もあってボイシを訪れた際、程々に老いたバートに半世紀振りに遭った。当時はまだ無邪気な男の子で、丘の上のチェイフィー家では卓球やボール遊びで私の周囲に絡んで、両親からの指図だらう、遠来の日本人青年をもてなす仕草が健気だった。

そのスチュードベーカーはグリーンのセダンで、車高が低く、慣れぬ私には乗り込むのに気骨(きぼね)が折れた。恥ずかし乍ら自家用車なるものに乗った経験が皆無だから、バートと後部座席に乗った時のひろびろ感は今も忘れない。ゆったりどころの沙汰ではなく、その気になれば楽に横になれるスペースだ。この国の大きさを感じた瞬間だった。

イメージ画像(スチュードベーカー)

車中でチェフィー先生は、このドライブ行の意味を訥々と語って下さった。訥々とは私の英語を聞き取る能力に忖度してのことと思ったのだが、後日気づいたことに、先生の日頃の語り口がそもそも悠然としたものだったのだ。先生のお話を煎じ詰めれば、蛮勇を奮って来てくれたからにはこの国のありのままを実体験して欲しい、気後(おく)れすることなく、この国の良し悪しを見て欲しい、この奥地(都会に比してぐんと原生味の多いアイダホの意味か)からこの国の大きさを意識して学んで欲しい、云々。

車窓に流れる原生の地に照らしてアメリカの自然のあれこれを語り、日本の自然のあれこれを尋ねながら、先生は私の気構えを何気なく探ろうと硬軟語調を交えて、将に訥々と話された。

かなり標高が上がった辺り、眼下に流れが見えた。先生は横道へ入られ流れを目指して樹間を下る。やがて岸辺に寄せるや、一同に一声、

「さて、ここらでひと泳ぎ・・・。

奥様は岸辺に座りバートは一も二もなく先生の後に続く。私はといえば、悲しいかな金槌の身で如何ともできぬ為体(ていたらく)。トランクスのないのを口実に見物にまわる。

小一時間の小休憩の後はさらにドライブ、やがてひときわ小高い絶壁状の突端に出る。見下ろせばボイシの街が遠望できる。奥様曰く、

「アイダホIdahoはインディアンの原語で『太陽は山から来る』という意味なの」

Idahoとは奇妙な綴りで英語らしからぬ名前だ。なるほどと頷けば、奥様はさらに、

「Boiseはフランス語のレ・ボアles bois、樹木ということ」

先生からは以後の学業の心構えを、奥様からは身の回りの言葉のあれこれを伝授頂いたドライブ行だった。乾いた土色の大地、時にコロコロと飛ぶセイジブラッシュの球、真面(まとも)な店とて見当たらぬ草原の有り様が強烈に印象に残った。

音楽の恩師の息子ヲーリが、先日までトランプの再選を阻んだデモクラッツ(民主党)の企みを怒って三日と置かずメールを寄越していた。ボイシに住む彼も、真面なのはアイダホくらいかも知れぬと云い、数日前、ユタ辺りの情報ではカリフォルニアから高税と社会不安を嫌って相当数の人口が流入してゐると云ふ。つらつら思ふ。あの悠然たるアイダホが何時まで救ひの地で居られやうか。

後記

二部の続きものとして企画した「救ひの地、アイダホ」の間に「昔日の」を挟むに際しては、將に進行形のアメリカの社会変動を生々しく反映させんとの意図があったことをご了解いただきたい。

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  1. 2021年 6月 27日
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