前記事の末尾に『梟翁があの世で「違うぞ!」と叫んでいるかもしれない』、と記したのにはわけがある。本人にとって一番心残りだったことは、実はこちらかもしれないからだ。子を為さなかったことに負けずとも劣らない、梟翁が求め求めて成し得なかった夢、それは音楽で足跡を残すことだった。
HPの人気カテゴリー「アメリカ苦学記」は、留学先のボイシステートカレッジでブロット先生と出会い、音楽を学ぼうとするところで終わっている。 →バッハに出会ふの記(55)参照
その後彼は、ブロット先生の元で音楽理論の基礎を1年間学んだ後、先生の紹介でユタ大学に奨学生として入学し、作曲や指揮法を学んだ。20代といえば何をやっても伸びる時期、その20代半ば、彼が音楽の学習に、まさに脇目もふらず人の何倍も努力をしたことは想像に難くない。シューマンさながら練習のしすぎで腱鞘炎にもなったそうだ。けれどもその頃に熱烈な恋に堕ち結婚、学習にブレーキがかかりながらも頑張ったが、結局帰国して英語で食べていくことになった。帰国後もオーケストラの練習指揮を務めるなどして音楽の道を模索したけれど、ドイツではなくアメリカで音楽理論を学んだことがハンディとなり、上に進むことができなかった。
2012年、ブロット先生夫妻の結婚75周年をお祝いするため、私たち夫婦はアメリカに渡った。アメリカでは知られたオルガン奏者で作曲家だったブロット先生は大歓迎してくださって、自作のお気に入りの合唱曲を紹介してくれたけれど、彼には先生に披露する曲がなく、「俺が音楽の仕事をしてこなかったことで先生をがっかりさせてしまったなあ。」と残念そうに漏らしたものだった。
梟翁の特技は、楽譜を見ながら歌えること、ギターを持てば初見で(初めての楽譜を見て)かなりの曲が弾けることだった。楽譜を読むのが苦手な私を尻目に、初見でどんどん曲を弾いていた。また、楽器マニアかと思うほどいろいろな楽器に手を出しており、ギター2本、電子ピアノ、バイオリン、チェロ、アルトリコーダー2本、フルート、ハーモニカ8本、二胡を所有し、どれでも簡単な曲を弾くことができた。
10年ほど前、二胡を弾く男性との合奏のために、「月の砂漠」などの唱歌数曲を三重奏用に編曲したことがあった。楽譜作成フリーソフトを駆使して作られたその曲は、小粋な転調があったりフーガの部分があったりと、昔取った杵柄を示す素人離れした出来栄えだったので、内心私は舌を巻いたものだった。
彼が83歳のときに書いた未完の記事には、命あるうちに自作の曲を残すことを目標のひとつに掲げていたことが書かれている。なかなか作曲に没頭する環境が整わず、掛け声倒れになってしまったけれど。。。(以下はその記事の抜粋、テンションの高い文章です)
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グレングールドが流れている。鋭利な刃物で切り裂くような透明なピアノが古典のソナタを紡いでいる。音楽はいとしくもくるしい。妙なる調べを聴くたびに、これほどの芸術があろうかと思ふ。さらば自ら紡がんとすれば、無念や、掌中に言葉なくただ途方に暮れるのみ。習い覚えたと思ったのは幻か。いや、さにあらず。掘れば泉はかならずある。私はいま、まずその泉を掘り当てる作業を始める。とは勘違いか。ミューズよ、照覧あれ。この世を去らんまでふた昔、私は四重奏一曲、交響曲一曲、叶ふならばバイオリン協奏曲一曲を残す。そのためにわが身を厭うことなかるべし。
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「音楽は聴いて楽しむものじゃない、表現して楽しむものだ。」というのが持論だった彼は、弾き続け歌い続け、最後まで音楽を友として生きたのだった。
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