方丈記の哀れ

われもひとの子、コロナ疲れがひたひたと忍び寄る。偉さうにしてゐる人間がウイルス風情に脚を掬はれて右往左往、何人罹った何人死んだと巷が騒ぐさまに流石に経たってきたのだ。なあに他人(ひと)はひとと嘯(うそぶ)いてゐた自分がいま、何とぐらついてゐる。

人間など弱いものだな。沈み込む気持の先にに、ふと方丈記の無常観が思ひ浮かぶ。さうだ、あれを仕込んで聴いてみたい。あれを聴きながらしんみり散策してみやう、と思い立つ。昨日のことだ。

仕込んでとはウオークマンのこと、このところあれこれ取り込んでウオーキングの伴奏にする仕来りだ。「シッタルダ」から「怒りの葡萄」と英語が続いてゐるから、この辺りに日本語もよからうと、早速に方丈記を取り込む。日本語の朗読には外れが多く滅多にいいのがないが、この方丈記はいい朗読だとのコメントを頼りにそそくさと取り込んだ。それがいけなかった。

言わずもがな、方丈記は徒然草、枕草子と並んで平安の三大随筆、「ゆく川の流れは絶へずして…」との格調高いことば遣ひが学徒時代の思ひ出とともに忘れられない。これに歩調を合わせれば、さぞや歩みも快からうと早速に取り込む。

愛用の杖を駆り、門を出る。楚々とウオークマンを回して前書きと思しきくだりを聴く。女性の読み手だ。幸田文ではないが程ほどの話が聴けやうと耳を側(そばだ)てる。先ずはしばし方丈記のいわれと著者の出自を解いて、やおら唐突に本文に入る。と、ひと言ふた言を聴いて愕然、歩みが止まった。

「ゆく川、流れてゆく川、の水は絶えることはないが、しかしその水は同じ水ではない・・・」

む?何としたことか。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは…」ではないぞ。興醒めとはこのことだ。立ち止まり、ターミナルを取りだして「方丈記」を中断、そのまま無音の歩みを十歩二十歩、じっともの思ひに耽る。何と云ふことか、華の古典が口語にされて干物になってゐる。行く川も解釈まで補われて面目もなにもない。川ならぬ文の流れが大いに損なわれて、平安の美文も形無しである。

頻りに思ふ。平安のものの哀れを身に沁みて感じやうなら、先ずは時の流れを遡って平安の古(いにしえ)に戻り、平安の大気に身を浸すことこそ要であらうが。方丈、徒然も平安の言葉で親しんでこそ滋味が味わえやうと云ふものだ。手練れの包丁で捌かれた美味を美味と味わい切ろうには、自ずから舌の鍛えが求められるやうに、古典を古典として味わうのは、それを読み切る知恵と知識なくてはならない。

古文の難易は問題ではない。難しさも味わいの一部であり、難易を云々する輩はそもそも古典を味わう資格がないとしたものだ。

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」でなくては方丈記ではない。平安の哀れを感じるに行く川の解釈はいらぬ。文字から耳から方丈を味わほうなら、言葉遣いの微妙な抵抗感はむしろ調味の世界、一癖二癖あるところに味わいが生まれ、それを捌いてこそ妙味がある。

その日の散策は台無しになった。この味気ない方丈記がその日のうちに取り除かれたのは云ふまでない。古典ものの取り込みには要心せねばならぬ。まごまごすると、自前で録音して自作自演をせねばならぬかも知れぬ。うむ、思へばそれも一興かも知れぬ。

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