三十七度の彷徨

小椋佳のデビュー・アルバム「彷徨(さまよい)」、うろつき感が面白いこの文字をふと思ひ出すとは妙だが、あの瞬間、なぜかそれを思ひ出した。さまよいと云ふ語感がその時の心理にピタリだったせいに違いない。あの瞬間とは昨日のこと、オミクロンも終焉間近、お上のちぐはぐな舵取りで世間が右往左往する様をひとごとに悠々自適を決め込んでゐた私が、突如体温が三十七度余に上昇してゐた。ぼっとした感覚から、念のために測った体温がさうなってゐたのだ。臨床データを欠ゐたmRNAワクチンを毛嫌ひしてワクチンレスを貫いてゐるわが庵だ、おや、コロナ奴いよいよお出でなすったか。

一瞬警戒したのだが、じつ三十七度では二年ほど前に痛い経験をしてゐる。物故した親友の葬儀で上京、帰宅して見れば体温がさうなってゐた。これが二日ほど続いててっきりやられたかと大いに慌てたが、何と、それが三日目には平熱に戻り、さしものコロナは早々にわが庵を去ったのだ。

手元の体温計は今風の瞬間計測型の奴だ。あまりの検温の速さが頼りなく、私は予々(かねがね)この手の体温計が示すデータを疑わしく思ってをり、この三十七度も怪しいと考えて数度も連続計測したのだが、一向に変はらない。昔の水銀柱の奴ならと探したが見つからない。ままよ、オミクロン来るなら来いと開き直った。

止むなく風呂をスキップして早めに一時(梟にとって早めだ)に就寝、誘眠剤に「第三の男」をセットする。突然の三十七度、二年前のこともあるから本物なら二日は寝付くことだらう。「第三の男」はキャロル・リードの名作、初っ端のマーチンの空港到着の場面から最後のアンナを見送る並木道のシーンまで、台詞込みで熟知してゐる。平熱が低いから三十七度は鬱陶しく、寝付くには少々手間取るだらう、並木道まで寝付かれぬと覚悟して瞑目した。

今朝目覚めて首を傾げた。ふわっとした感覚が失せてゐる。額に触れておやっと思った。どうやら熱っぽさがない。それはなからうと例の体温計を急ぎ舌下に挟む。ほぼ瞬時に近く微音が聞こえる。見れば何と、三十六度三分の平熱ではないか。不信の体温計が天使に思える。舌下腋の下と二度三度と繰り返し平熱を確かめる。思へば、「第三の男」はマーチンがジェイムズ・ジョイスの意識の流れの無知を知らずに責められる場面辺りをうっすら覚えてゐる。三十分ほどで寝込んだらしい。

計測時の感覚では一晩寝て三十七度を克服したことが何とも信じ難く、着替えてすぐに昔の水銀柱の体温計を探した。小一時間掛けて見つけた水銀柱で測り直して平熱を確かめ、ほっとして背もたれに座り込んだのは昼過ぎ、濃厚接触者の汚名(?)を背負わずに済んだ女房どのの喜ぶまいことか、ともにワクチンレスを貫く身で身内ながらご同慶に耐えない。

それにしても、37度は流石豪胆な私を彷徨(さまよは)せる因縁の計測値だ。三十七度超が三日続けばコロナと疑えというガイドラインが曲者(くせもの)、オミクロンが萎(しぼ)むのも時間の問題らしいから、各々がた、われら日本人の叡智を傾けて第四コーナーを滑りぬけやうではないか。

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