五輪音頭は聞こえない

百数十段もあったか、点火台までのあの長い階段を馳せ登る白衣の青年の姿は今尚瞼に躍動してゐる。坂井君といったか、彼の掲げるトーチの聖火が点火された時、日本中が沸ゐた。戦禍ようやく影を潜め、これを機に高速道路を敷き新幹線を走らせて、日本は初の五輪を胸を張り満腔の気概を込めて迎へた。

東京五輪、アジア初の五輪は将に世紀の祭典だった。それもただはしゃぎ回る祭りではなく、日本此処にあり、の思ひを世界に示す晴れの舞台である。これに先立つ1948年のロンドン五輪で、不参加の日本は五輪水泳の向こふを張り、水連が日本選手権を同時開催し古橋が千五百メートルで五輪金メダルを大きく上回る世界新記録で泳ぎ鬱憤を晴らすなど、日本の五輪への拘りは半端なかった。だから、五輪参加が現実に、それも自国開催が実現したことは、スポーツの枠を大きく越えた国民的興奮が朝野に漲ってゐたのである。

折から街には、これを寿ぐ三波春夫の五輪音頭が流れて、巷は嫌が上にも五輪一色に染まった。開会式に流れた古関裕而の五輪行進曲に胸が迫った人々が如何に多かったか。日本得意の柔道やレスリングの活躍、さらに新興のバレー、とくに大松監督率いる回転レシーブの女子バレーがソ連を破った熱戦は、東京五輪の華と記憶され、金が取れず胴に終わって済まぬと自ら命を絶った円谷の面影は思ひ出すだに辛い。

東京五輪は壮大なドラマだった。日本は見事にホスト国の重責を果たし、国運はあれを梃子に飛躍的に盛(さか)った。全て事なれば五輪に勝る祭典はない。全て事なれば、である。

そして半世紀が経った。

時ならぬパンデミックの真っ只中、いま五輪が開かれやうとしてゐる。何方(どちら)でもない、この日本で再びの東京五輪が開かれやうとしてゐる。いや、正確には開かれるか否かが問われてゐると云ふべきか。疫病騒ぎが発覚するまでは、そら、あの東京五輪のドラマが見られると大方は跳ねて喜んだ。国立競技場を建て直すまでして、夢よもう一度とはしゃいだのである。

先刻ご案内の厳しい現状については、くどくどとは書くまい。専門の有識者が何の目的で開くのかとさえ問ひ掛けてゐる由々しき状況は、この五輪の因果が唯ならぬことを教へてゐる。賛否両論が飛び交ふ中、六月半ばの時点で政府は開催を目途に動いてをる。

パンデミック禍最中に友情と敬意尊重などのゆとりがあらうはずもない限り、良識は五輪返上を示唆するはずだ。世論の六割方が中止したいと云ふ五輪を何の目的で開催するのか。五輪返上への課徴金が枷とはいただけぬ。パンデミック禍は五輪返上の至極至当な理由で、IOCが課徴金を課すなら国際裁判に及べばいい、とさえ吐く御仁がゐるほど世論が錯綜してゐる。強行すれば例の「波」がまたまた打ち寄せ、このウイルス騒ぎは収拾の付かぬ事態を惹起せぬ保証はない。前記有識者の問ひ掛けは至極もっともだ。にも拘らず政府は粛々と五輪決行の姿勢を崩さない。

思ふに、わが政府が五輪開催で得やうとする「成果」に何やら余程の意義を確信している筈だ。

昨日六月十一日、コーンウォールでのGセブンにわが首相が参加、世界へ向けて明白(あからさま)に五輪開催を宣言した。賽を振り投げたのである。かくなる上は、賛否は問はずわれわれは意を決せねばならぬ。パラリンピックを差し置いて、本体の東京五輪がパンデミックがもたらす手枷足枷によってあたかも壮大なパラ五輪と化すことは避けられない。要らぬお祭り騒ぎは脇へ置いて、パンデミック下の国際的行事を事なく成し遂げ、日本ならばこそ果たし得たチャレンジだ、と世界に強く印象付けたい。メダル争ひは二の次三の次、今回の五輪記録は参考データにしてさえもよし。東京五輪を境にさしものもパンデミックが潮が引く様に鎮まった、と世界に安心を齎(もたら)したい。

しかし、五輪後の状況がどう転ずるか、全く予想もできない。願はくばの思ひこそあれ、かくすればかくならんの奇策もない。ここは本来の日本人の実直と誠実が生きる筈だと信ずる以外はない。あれほどの五輪はなかった、あれは五輪の鑑(かがみ)だと、未来の世界が2020東京五輪を振り返って讃える様(さま)を夢見たいものだ。たとへ五輪音頭は聞こえなくとも……。

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