いやご同慶の至りと云おうか、新元号をめぐる姦(かしま)しい一時(いっとき)が過ぎてまずは祝着。改元などそう滅多にあるわけではなく、元号(era name)を持たない外国のメディアまでも騒いでくれて、日本は時ならぬ注目の的になった。
新元号に決まった「令和」について、巷では早速ながら意見やら感想やらが飛び交っている。雀の囀りに似て意味もない戯れ言ばかりが目立ち、肝心要の声が聞こえてこない。令和が万葉集に準拠しているとか、和は常に貴しとかの指摘が先行して、二字の繋がり具合や意味合いに何処か無理があることへの言及がないのが物足りない。先ずは祝着と云いながら、ひと言だけの苦言をお許し願いたい。
結論を云えば、筆者は令和なる言葉の意味に無理があることを指摘したい。先ず、令息や令室などで膾炙(かいしゃ)している「令」に「和」を添えて何を示唆しようというのか。さらに万葉集は万葉仮名に「漢字」を援用したもので、「万葉集に準拠した」と云うなら「ひらがな元号」こそがまっとうな選択ではなかったのかということだ。
令息や令室が相手の息子や内室を敬っての言い草なら、「和を敬う」意味が判然としない限り令和はかったるい言い回しだ。「令なる和」とは日本語ではない。むしろ他案にあった万和(ばんな)こそが和の何たるかを語る鮮やかな字配りだ。意見を述べられた「賢人」たちの中にはそう述べられた方もおられたであろう。その方々の思うとことが活かされていないところに、日本の文化的劣化を目の当たりに見る思いがする。数々の文学賞に昔日の面影がなく、誇り高い日本語による日本文学が終焉して久しいのも宜なるかなの感が改めて深い。
振り返って令和の出自を思えば、落胆の思いはさらに深い。初めて日本古典に原典を得た命名という見解に至っては、胸を張って述べるには余りに浅薄に過ぎる考えと云わねばならない。仮名(かな)を読ませるために援用した漢字を「万葉仮名」と呼称するが故に国字扱いし「漢字ではない」と言挙げするなどはとんだ言葉遊びだ。令と云い和と云い仮名に振り当てた漢字には違いないからだ。
さてしかし、議論はどうであれ新帝の統べる日本の元号は令和と決まった。天皇制反対の一部の異端分子はさておき、新日本はこの元号で「万和」を生きるべく船出する。祝着の極みである。その出自には一家言あるいせよ、筆者も満腔の希望を新帝と新元号に捧げる思いには爪の垢ほどの疑念もない。
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