もうひとりの増田明美

増田明美さん。言ふまでもなく女子マラソンの嚆矢(こうし)、華奢な体で只管(ひたすら)走る勇姿が忘れられぬ。現役時代は走り手として注目もしてゐた明美さん、優勝インタビューでの受け答へでは、さして際立ちはしなかったのが、現役引退後に鮮やかに脱皮した。ヴェテラン・ランナーとして復活したのではない、マラソン解説者として劃然(かくぜん)と生まれ変わったのだ。成る程と頷かれる人も多からうが、レースを解説する彼女の語り口は、ランナー時代の記録を上回るかの名調子。スタート間際の数分に、何時何処(いつどこ)で調べたのか、細かいデータを駆使して選手たちの調整具合を語り、競技の展開を事細かに予想する手際は鮮やか。それも何の澱みもなく、話の起承転結に抜かりが無いのが見事で、選手時代の走りっぷりがそのまま語りに乗り移ったかようだ。明美さんが解説者か否かでマラソンの楽しみが違ふといえば、やや言ひ過ぎか。

ところで、増田明美さんを引き合ひに出したのには実は理由(わけ)がある。何を隠さう、わが庵にも増田明美がゐるのだ。走りもせぬのに、マラソンを語ると滅法詳しい解説者がひとりゐる。マラソンではなく駅伝、それも正月恒例の箱根駅伝を語らせては玄人裸足、この名解説者が世情に疎い私の駅伝観戦を幾層倍楽ませてくれる。

それは他ならぬ、わが女房どのだ。

これは戯言ではない。何が切っ掛けかはとんと承知してはおらぬが、駅伝を走る若者たちの消息に通じ、年間を通じて駅伝競技の予定を熟知する風情を、何時からか見せるやうになった。大学駅伝は勿論、実業団対抗、都道府県対抗、それも男女それぞれについて、中学校、高校レベルの駅伝まで網羅して駅伝競技をフォローしてゐる。

競技大会の予定を飲み込んでゐるらしく、日時から出走メンバーのデータまで把握してテレビ録画の設定を忘れない。いや、大会ばかりか駅伝話しを細大漏らさずチェック、大会に先立つ盛り上げ番組の録画予約も怠らない。箱根駅伝直前の監督たちのトーク・バトルなどその掉尾(とうび)で、この番組を逃すことはない。タイミング良くそれらの事前番組を見せられる私は、当然ながら期待感が上がり、何時からか本番の駅伝を心待ちにする。始まれば、わが庵の増田明美さんは手取り足取りの解説を施しながら、自分も大いに駅伝を楽しむと言ふ、なんとも言へぬ愉快な習はしがわが庵には根付いてゐる。

今年の箱根は、無念、青山学院の席巻する処となった。世田谷に住ってゐた年月が長かったので、わが庵では依怙贔屓(えこひいき)で駒澤大学を応援する。今年の箱根では、昨年優勝の駒澤にも大いにチャンスはあったのだが、往路の不手際が祟って復路で六位まで後退、その後盛り返し、ゴール直前で東洋に一旦抜かれたものの抜き返すと云ふデッドヒートを演じ、走り終へれば縁起よく三位で一応の面目を施した。

いつの年でも同じことだが、正月二日三日の箱根駅伝は、夜行性の梟(ふくらふ)たる私には鬼門だ。往復両路を初っ端(しょっぱな)からは到底見られぬ。それぞれ一時間半ほど遅れて観戦、それまでの経過は解説付きで事後観戦で楽しむ仕掛けだ。ここでも自前の増田明美の存在が大いに光るのである。

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