生き返る中指

幽霊の正体見たり枯れ尾花と云ふが、これは大変なことになると思って身構えてゐたものが、実は他愛のないことだった、と云ふ話がある。ほかでもない、私にそれが起こったのだが、さてお気に召すかどうか、先ずはご披露しやう。

もう半年にもならうか、左手の中指が第二関節でこちんと引っ掛かってコの字に固まると云ふ現象が起こった。それがギターを弾いてゐたときに起きたものだから、音は途切れるは、テンポは乱れるは、楽想もなにもあるものではない。折角の愉しみがおじゃんになったのだ。コの字を開かうにもちくりと痛む。妙だと手を握り開きしてみれば、三度に一度はコの字が出る。とてもギターどころではない。その日は諦めて指の養生に掛かった。

一日をいて、疑心暗鬼でギターを抱へたが同じことが起こった。どうやら左の中指に幽霊が住み着いたやうだ。何しろセーハで内側のフレットを探る中指が元に戻らない恐ろしさは、ギターを弾く人なら分かって貰へやう。曲にならないのだ。これはえらいことになった、と頭を抱へた。ギターは長年の連れ合ひ、十代からの馴染みで留学先ではセゴヴィアの弟子について磨きもした術がこれで廃れるか、と大いに悩む。

どうしやうかと考え込む。触れて見れば第二関節の骨の接点がぎくしゃくしてゐる。関節が外れては戻るやうだ。骨なら出っ張りを削るなどの手術にならうか、と心配が募る。何をしてもこの指の故障が気になってまとまらず、ものを書くにもとんとまとまらない日々が続いた。

ある日、愚妻が思わぬ情報を探り出した。手のあれこれに特化した科目がある病院が熊谷にある、と云ふのだ。手外科と云ふ聞き慣れない科目がある慈恵病院。F本先生と云ふ名医がゐると云ふ。しめたと思った。手に特化した外科とは珍しい。何としてもこの指を診て貰わねばなるまい。

道路事情やら体調やらで二度ほど初診を断念した経緯は何やら因縁めいて、この指の行く末が意味なく案じられる。今にして思へばギターが弾けなくなる心痛のなせる技だった。指を切って遂に弾けなくなるなら今のままでいい。今のままなら拾ひ弾きぐらいできる愉しみは残る。切って見事に指が復活すれば、勿論それに越したことはない。さてどうする?

そんな思ひが錯綜する中、今日、三度目の正直でその病院へ行った。受付であれこれと事前の書きものを済ませて、いざ診察室に向ふ。K崎を云ふ女医だ。気なしか心許ない。ままよと診察室に入りこれこれかうだと話をする。K崎先生は30代と思しく若い。大丈夫かと一縷の不安が過ぎる。が、私の説明を聞くや、掌側、指の根もと辺りを差して、このあたりの部位に炎症があり、ステロイドでの消炎処置か手術で炎症部分の処置ができる、 『ばね指と云ふものですね』と明快な判断を下される。ばね指?骨を切るなどの話はひと言もない。私の憂いはどうやら的外れな予断だったやうだ。X線を撮ってF本先生の判断を待ちませう、と。

ばね指のパンフレット

待合室に戻ってあれこれ話してゐる場に、隣の待合患者が声を掛けてきた。板前だという。その手術は20分ほどのもので自分の右手は全部手術済みで「これこの通りしっかり動く」とさくさくと握ってみせる。左手はこれからでまだ上手く動かせない、と不自由な握り具合をみせてくれた。

20分の簡単な手術なら何のことはない、と妙に安心。その板前のひと言で、もうギターは弾けないなどの不安感が消えて、目の前が俄に明るくなった。

早速にX線を済ませ、呼ばれるままに今度はF本先生の診察室に入る。HPの写真では髭を散らした厳めしい風貌だったが、面と向かった先生は写真よりも若く明度の高い医師だ。にこやかに私らを迎へ開口一番、X線ではあなたの指は年齢とは思へぬほど健康で、切った張ったは必要なし、ステロイドでの消炎処理で充分、三、四日で効果が出る筈だ、とのご託宣だ。何と云ふ顛末、将に幽霊見たか枯れ尾花だ。誠に有難いとの礼もねんごろに、滅法愉快な私はステロイドやらを打ってもらいませう、と左手の掌をグッと開いた。

グッと、には訳がある。何年かまえに爪の中の棘を抜くのに指の先に注射をされた、あの時の滅法猛烈な痛みが脳裏に走る。指元から1センチ半ほどと云ふから指先よりは十センチほど内側だ。その分痛みは少なからうが半端ではなからうと云ふ懸念からの思ひ入れだ。

さて、ズブッときた注射は予想を越えて痛かった。ほどほどの量のステロイドが入っていく間、切ない痛みが左の肩先までジーンと滲み通った。あの指先の経験がなかったら、うなり声のひとつも出たかも知れぬ。

ひと月後の来診を決めてF本先生に最敬礼、会計を済ませて病院を出た。620円で済んだと愚妻が快哉。入ったときの不安漬けの思ひは一転底抜けの愉快に変った。骨の切った張ったはなくてもいい、三、四日で、中指のコの字はなくなると云ふ嘘のやうな話だ。

かくして幽霊は消え、正体は花ならぬばね指と知れた。はて、枯れ尾花とやらはどんな花か、見てみたいものだと思ふのも愉快の顕れか。重畳重畳。

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