コロナを忘れた100分間

日々の生活を蝕むコロナ、三密だソシアルディスタンスだと人を縛るコロナがフッと意識から消えた。その3文字を咄嗟に忘れ、もの思ふ脳神経がいっとき、まったく別な方向へ走った。ほぼ100分ほど、それはついぞ未知の状況で後追いに怖気を振ふほどの危険な経験だった。

八月十五日、待ちかねて靖国神社に詣でた。盆回りの行事の合間に靖国に詣でる習慣は20年来、一度として欠かさぬわが家には、常ながら戦火に散華した英霊を崇敬する念が頗る深い。途轍もなく暑いぞ、熱中症が輪を掛けるぞと、今年は止めてはの声がそれとなく囁かれてゐたが、何のと押して出掛けた靖国で、それは起こった。

私には一人のプロの写真家に知己がある。Sさんと云ふ歳はやや下の昔気質の名人で、フィルム専門、それも白黒で、当然ながらDPEを一人でこなす社会派のカメラマンだ。数年前、靖国の大鳥居下でひょんなことで知り合って以来、欠かさず連れだって靖国詣でしてゐるのだが、その彼が今年は靖国は止めやうと思ふ旨の留守電を寄越したのだ。愚妻が確認すれば矢張りさうするつもりとのこと。電話を引き取って、こっちは行くつもりだがと平然と宣言。本気かと云ふからさうだと答える。ややあってならば俺も行くと云ふではないか。行かないのは奥方の反対かと問えば違ふと云ふ。家の者には何も相談はしない、そもそも行く気ではあった、と奇体なことを云ふのだ。

どうして急に、と云ひかけてはたを気づいた。日頃コマネズミの様に働き回る彼にしては妙だ。恒例の靖国詣でを欠く気になる裏には、予想される猛暑の下に兎角運動不足の私を晒さぬために方便を巧んだに違いない、と読んだ。それなら俺も行くといった語意にそれが如実だ。深慮の方便、馬の合う同士の気配りは猛暑を弾(はじ)く効果があった。俺は愚妻共に行くから靖国で会はう、などと聞いたような科白を吐いて電話を切った。

そして、聞きしに勝る猛暑の中、われわれ三名は例年通り靖国大鳥居下で邂逅する。一年ぶりの挨拶を交わしながら、問はず語らず肌を刺す熱気を感じてゐた。数枚のツーショットを撮って貰ひ参拝の列に加はる。大村益次郎の数メートル先が参列のどん尻だと云ふ。えらく長い参列だ。知るかぎりこれほどの長蛇はなかった。例のソシアルディスタンスでもあらうが、それにしても途轍もなく長い。その瞬間、私には悪い予感がした。

振り返れば、昨夜の夢でのこむら返りが起床後微かに痕跡が残り、右の脹ら脛がやや凝る。夢中での七転八倒が寝不足に繋がってゐるかも知れない。人には云はぬが覇気にどこか欠けるまま家を出たが、途次虫の知らせでウイダーを買って貰って啜る。あれやこれやが、振り返れば日常的でない状態の兆候だったのだ。

例年なら40分ほどで済む参拝に1時間40分掛かった。それも40℃に1、2度と云ふ猛暑の下だ。社殿まで50メートル辺りでそれは起こった。足腰がどうと云ふでもないが、辺りの景色が気なしかぼうと霞む感覚に襲われた。暑さのせいだらう、どことなく頼りない。どう云ふ加減か尿意を催す。しこたま汗を欠きながらの尿意は妙だと思ふが、確かに尿意に違いない。二人に伝えて最寄りのWCにむかう。

小用を立って済まさず敢へて便器に座って、じっと考えた。並々ならぬ倦怠感だ。冷房が効いてゐるのを幸ひに用を済ませて1、2分、気息を整えながらそれが只ならぬ状況であることに気づいた。熱中症と云ふ症状はこれに違いない。参拝を済ませるまでのあと十数分、これは意識的に体調を盛り立てねばなるまい。

便所を出て数歩、Sさんに出会ふ。あなたもかと問へば、心配で迎えにきたと云ふ。愚妻が至極心配してゐると云ふのだ。なんのことはない、涼しいから一寸幸便に休んでゐたのだ、と元の列に戻り、さり気ない風を装って参拝を済ます。

取りあえず座りたい、と白鳩会の軒下の折り畳み椅子にSさん共々座り込む。様子を察して愚妻が、なんと、時ならぬかき氷を探して持って来てくれる。いや、あのかき氷の美味かったこと、体に染み渡る冷気が茫然感をみるみる溶かし去る快感は例えようがない。幼い頃から知らぬではないが、あの瞬間に掻き込んだかき氷の味は空前であり、これからどんな機会に食うにせよ絶後だらう。それほどの干天の慈雨だった。

その後Sさんと3人、九段下のホテルに繰り込んで此処を先途のあれこれ話をする。今年は詣でぬとまで云って私の体調を案じてくれたSさんの心情を思ひ、私は雑談術の限りを尽くして愉しんで見せた。熱中症間際の状況だったことを悟られまいとの強がりだった。愚妻にしても間際で済んだ安心をあからさまに見せた。

すべて終わりよしではあるが、2020年の靖国詣はコロナを忘れた100分間として、なかなか忘れがたからう。それでも、来年はと云ふ話になって、春秋の例大祭ではもの足りぬから四時ぐらいまで時間を下げてやはり八月十五日にしやう、と一決、何とももはや懲りない面々ではある。さて、その経緯や如何に、来年の靖国報告をご期待あれ。

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