トム:その2(25)

Chicken track
トムの話しを始めると切りがない。マルーン色のダッジ(車)が懐かしい。かまぼこ型のランチボックスからピーナツバターサンドイッチを取り出す仕草、どうだ喰うかと目顔で問う癖、ばあさんの昼飯はうまいと細君の自慢が常だったトム。そのトムが珍しく日本語を教えろとせがんだことがある。面白いぞとわたしは木だの山だの簡単な漢字を地面に書いて見せたが、それを見た彼のとっさの反応を思い出していまでも微笑ましい。

「なんだそりゃ、chicken trackだなあ」。 言い得て妙だ。漢字など異人の目には鶏の足跡に見えるらしい。山が山の形に見えるだろうと、川は水の流れそっくりだろう、というわたしの話を、トムは咬みたばこを咬み忘れるほど、じっと聞いていたものだ。

習うより慣れろ
わたしがトムの思い出に耽るのは、懐かしさからばかりではない。あの国の土を踏んだその日から絶え間なく続く言葉をめぐる葛藤を生き抜けたのは、振り返ればあの頃のトムとの触れ合いから学んだコミュニケーションの技だった。いや、奥義と云ってもいい。知らぬことをそれとなく聞き出す言葉遣い、通じるか否かをそれとなく試す小技など、トムは教えるとなくわたしに伝授してくれた。

大学が開講する九月までの二ヶ月間、わたしには英語を習うための時間は一分とてなかった。習うより慣れろという。わたしにはその習う過程がなく、じかに慣れる時間の連続だった。その対象があの素朴なトムだったことは、わたしには僥倖としかいえない。小難しい議論の原点をわたしはトムとの仕事上のいさかいで学んだ。思うところをずばり云うことの大切さを、つまり生き馬の目を抜くアメリカ社会で生きてゆく肝心要の技を、わたしはそれと知らずトムとの一刻一刻から学習していたのだ。

Boise vs voice
ボイシはアイダホ州の州都だ。仏語の「木」を意味するboisからの転化だが、私はそれまでボイス、ボイスと勝手読みしていたのが仇になり赤面する出来事があった。あるとき、何気ない会話でこれを立て続けに口走ったことがある。そのとき、たしかディック・シュミットというドイツ系の仲間だったか、わたしを遮って、おまえそれはvoiceだろうと半畳をいれた。いや違うと逆らうわたしを抑えて、さては日本から来たばかりでbとvの区別がつかぬに違いないと思ってのことだった、という。ディック曰く、いやトムがなあ、おまえが言葉で苦労してるから気配り頼むというものだからつい、と。そういうことだったか、とわたしは咄嗟のいらだちを恥じた。恥じながら、周囲のぬくもりを体感した。

ディック
ディックといえば、あれはいい奴だった。いかにもドイツっぽい男で、日独伊の馴染みもあったのだろう、お互い溶け合うところがあった。仕事の合間にディスペンサーから5セントでコーラを取り出して見せ、こうするんだと王冠を掻き取って飲んで見せた。やってみろといわれて初めて飲んだコーラの味は、わたしにはとても飲料とは思えぬ代物だった。ご免蒙ると思ったあの飲み物に、その夏中お世話になろうとは、好き嫌いなどは畢竟成り行き任せの習癖だと悟ったものだ。

ボイシ・ジュニア・カレッジの前身はエピスコパル教会系二年制の女学校だ。一九三二年の創設だから、一年早く生まれていれば、わたしはその最初の卒業生と同時に世に出ていたことになる。わたしが学んだ一九五〇年代半ばには、男女相半ばする単科大学になっていたが、そこはかとなく温和な雰囲気があったのは、その前身の名残だったのだろう。

バナナオイル
最初の夏、トムの「配下」に入ったディックとわたしの仕事は、まずアド・ビルディングのメンテだった。煉瓦作りの二階建て、茶色に白い縁取りが走る小粋な建物だ。一階には学長以下教授たちの執務室が並び、北端には図書室がある。二階はすべて教室だ。仕事はひたすら床磨きと窓拭きで、とくに床磨きは初めて尽くめの難行だった。タイル張りと木の床はどちらも処理は同じで、段取りはごく単純な作業だったが、使う道具のものものしさにはほとほと閉口した。

床は掃かない。幅広いモップにバナナオイルなるものを吹き付け、馴染ませたもので床面を押して歩く。一本で教室なら一部屋、廊下なら二、三十メートルほど、床の埃を吸い取る仕掛けだ。ほどほどに白っぽかったモップが埃にまみれて真っ黒になる。大味な仕事で雑巾で拭き取るなどは埒外だ。こんな掃除もあるか、と感じ入ったものだ。

バナナオイルが済んだら磨きだ。石鹸水を撒く、というか万遍なく塗るという感覚だ。鼻歌まじりで扱うまでには器用な筈のわたしが二週間はかかった。スカラバーという代物は径七十センチほどのワイヤブラシ付きの円盤で、これが石鹸水を撒いた床の上を縦横無尽に動き回る。これを中心から伸びた一本のハンドルで操るというのだ。なにしろ重い。ちょっとした角度の変化で右往左往するさまは、あたかもじゃじゃ馬だ。それが唸りながら動き回るのをなだめながらの作業は半端ではない。あれは若いばかりじゃできない。足腰が頑丈なことが条件だ。

生活の哲理
こうして磨き洗いした床はしっかり乾かす。トムがしきりに云っていたものだ。乾かし切らないと後の仕事が台無しになるぞ、後悔するぞ。

しっかり乾いた床にはワックスがよく乗る。床が乾き切っていないところに乗せたワックスは、湿り気のある部分が白濁して残るのだ。こうなると、その部分はやり直しになる。生来のせっかちで、わたしはこれをしでかしてはトムを嘆かせた。温和なトムは、眉根を寄せるだけで怒りはしなかったが、仕草で私は彼の落膽が読み取れた。後悔した。もうやるまい、と内心誓ったのである。聲高の叱責よりも、何気ない無い仕草がじんと身に応えた。なんと言うことはない生活の哲理を、私はトムとの暫しの日々に生々しく刷り込まれた。

懐かしいトム
九月、新学期が始まってトムとの時間は途絶えた。構内の仕事は芝刈りや屋外の清掃作業に替わり、ほかのスタッフの指揮下に入ったからである。折々に見かけることはあったが、トムとしげしげと語り合う時間はなくなった。今にして思えば、トムとの時間はチェフィー先生の計らいだった。外つ国に来た日本の若者のために、人間的な触れ合いから言葉に馴染ませようとした思いやりだ。

トムの老人らしい温和な物腰に訥々(とつとつ)とした語り口は、私にはアメリカ文化へのまたとない手引きだった。トムが身罷れて久しい。思い出すだに涙腺が緩む。マルーン色のダッジ、空色のオーバーロールを無造作に纏ったトムの後ろ姿が、瞼を閉じれば歴然と浮かび上がる。懐かしいトム、I miss you,Tom.

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