再びの茅ヶ崎海岸

睡眠剤に芭蕉を聴く習慣は長い。寺田農朗読の細道は秀逸で、微かに聞こえるほどに音量を抑へて、大概は八重撫子(なでしこ)の名を訊くまでもなく寝付くのだが、この夜は寺田調に惹かれて、なんと蛤の身ふたつになるまで聴き惚れ、芭蕉翁の心根を偲んで目が冴へて寝込むのに往生した。

寝足りない朝が明ける。抜けるやうな晴天、愚妻が茅ヶ崎へひと走りしたいと云ふ。圏央道で一本道、自慢のオートクルーズ機能を披露したい意欲満々である。茅ヶ崎と云へばしらすだ。それを仄めかしながらの誘いと納得。酢びたしのしらすは炊き立ての飯には最高の合いの手だから四の五はない。寝不足はさて措いて楚々と出支度を済ます。

茅ヶ崎は一年振りだ。去年の三月に行って海岸の砂を裸足でにじり歩いてコロナ禍の憂さを晴らした。その折りに海産物店で求めたしらすはその日の晩飯の華だったから、再びの茅ヶ崎は大いに乗り気だ。

圏央道はわが庵から鼻の先に入口があり、高速での遠出がめっきり便利になった。近頃乗り換へたNボックスに装備されてゐるオートクルーズは、高速道路での走行でこそ価値がある。ある速度で設定しておけば、アクセルペダルから右足を離して地団駄が踏める。その昔、レジェンドで大いに助けてもらった機能で、いまは軽のNボックス風情にも付いてゐる。流石はホンダだ。

オートクルーズが初体験の愚妻は、ほらどうだと言わんばかりに地団駄を踏んでみせる。ややスピード癖のある彼女は80キロの定速運転には不満気だが、アクセル・フリーの醍醐味は愛でてゐる風情。

GW明けの圏央道は流石に渋滞なく、一時間半で茅ヶ崎海岸に着く。それでも駐車エリアは程々の数の車が群れてゐる。見ればあちこちでサーファーたちが身支度をしてゐる。波はと見れば、本格的なサーフィングは無理でもマイルドな波乗り程度の状態だ。すでに十人は越えるサーファーたちが浮き沈みしてゐる。それを見物する人の群れも海岸沿いにちらほら。天気はよし、乗るも眺めるも、格好な日和だ。

海の風情はいいものだ。水平線まで視野が広いし、マイルドとはいえ波が岸に打ち寄せるさまは、武蔵野の畑を見慣れたものには心地よい自然の営み。釣り好きとしては小磯なりに竿を出したいところだが、この際それは高望みだ。

杖を翳(かざ)して海辺のオゾンを吸い込む。命が延びる。愚妻はと見れば、裾をたくしあげて打ち上げる波に逆らって海中へ。ひたひたと右へ左へ水中散策の余念がない。このところ、ばね指の治療で熊谷詣でが続くなど世話を掛けてゐる。砂地を歩いて憂さが晴れるなら、有難い話だ。

小半刻を海辺で過ごし、目指すしらすを仕込んで先ずは最寄りのデニーズへ。コーヒーと何やらパフェを楽しみ、幸便に書きかけの一本に数行を書き足す。かねてよりのシューベルト論、梟翁夜話にでもと構想してゐるものだ。三十半ばで夭折した彼が余りにも惜しまれる。旋律にすべてを賭けたこの天才が、如何にも窮した一生を送ったことが、わけもなく辛い。

帰途に清河寺温泉に寄ることは、事前の約束だ。温泉とは云へかし、清河寺は日頃馴染の風呂だ。思ひ出したやうに行っては疲れをとる、わが家には欠かせぬ憩ひの場だ。幸ひ浴客は少なめで、この日の清河寺は稀に見る馳走だった。寝不足で湯船で寝込む虞(おそれ)はあったが、幸ひそれもなく、海ありしらすあり、締めに良き風呂ありの、今日は稀に見る佳き日だった。

再びの茅ヶ崎海岸、コロナの最中、格好な生命の洗濯であった。

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