死生のこと

今日は何故か心中穏やかならず、筆先も気無しか毛羽立《けばだ》ち、書くことが上擦る予感がするので予めご海容を願ってをく。大上段にまた何をと訝《いぶか》られては困るのだが他意は欠片《かけら》もなく、それ、寄る年並みとも云ふではないか、老骨は折々に生き死について考へがちとは思われぬか。死生云々はさておき、それと知らずに生まれた身なら所詮それと知らぬ間に死なんと思ふか思はぬか、そこで思考停止せずに誕生が自然なら死も自然、ならばとごく自然体で死生観を弄ぶのも一興か、と思ふが如何。

いざ米寿も指呼の間になり頻りに同年輩の物故が続くと、矢庭に時への感度が敏感になるから妙だ。来《こ》し方と行く末の間を鳥瞰するに、時の比重が対数的に揺れ動くことに気付き、今更に箸の上げ下げにまでが気に障る。いや、揺れ動くよりは様変はりかもしれぬ。時の経過の仕方が様変はりするのだ。その現象に目を凝らすや、暇《いとま》なく死生観の認識のありやなしやを、文字通り有無も言わせず問われるのだ。

生まれて意識が芽生えるまでの時の流れは、これ模糊《もこ》の極み、微かな母乳の匂いに子守唄のねんねんころりが織り混ざる境地の模様はおよそ筆舌に尽くし難い。逆《さか》しまに辿《たど》れば、その記憶が自我が育つ肥材になっただらうとは思ふのだが、それを因として如何な果が産まれたかの曰くが、とんと分からぬ。何とももどかしい限りだ。

先日身罷った石原慎太郎の死に顔が柔らで安心した、と息子の某が呟くのを聞いた。生前の言動が投映されようとは思わぬが死は穏やかたるべしとは誰しも思ふ。自ら嫌われ老人として死にたいなどと放言しつつ、やはり人の子、彼も近づく死への掛け値無しの怖れ乃至は謙虚な身繕いはあったはずだ。安心したと云ふ息子は、静かに息絶えるのを見届けたからだと云ふ。思へば、人の誕生に産声あり死の瞬間に静謐ありとは、必然かつ自然な理《ことは》りだ。

幸いに五体満足に産み出され、五臓六腑になんの不安もなくほどほどの年嵩になってみると、死生に生の澱《よど》みは欠片もなく、今はただ死の真当な成就こそが要《かなめ》ぞ、と自戒の意識は溢れるほどありながら、あたふたと揺らぐ己れを他者として眺め、今更ながら憮然としてをる。今更ながらなにやら勲章を狙うも愚か、誰それと引き比べて至らぬを悔やむも拙《つたな》し、残る術《すべ》は何がしかの才あらばそれを活かして分に過ぎる励みを尽くすほかあるまい、とやうやう気付くに至る不肖さが、吾ながら何とも哀れ。

年の功なるものがあるとすれば、近頃その兆しを感じることが多くなった。もののあり様を測る天秤の一方の錘に死を置く知恵がそのひとつ。何かにの意味を測るに死を基準を以ってする知恵は仲々なものだ。年老いて初めて悟る叡智の実体だ。分かり頃にそれを納得したにせよ、その時点で残される余命の多さにその意義の深みを遂に悟りきれまい。多くて十年を残すに過ぎぬいま、この悟りは只ならぬものがある。何かには残り少ない命を賭けるに値するや否や、この感覚は只事ではない。

遣り果せてこの世を去らんと心に決めたあれこれが、最後のひと息を吐く時点でどれほど果たされているか、That is the question.ほぼ仕遂げておれば、さぞや安らかなひと息ならん。出来もせぬ仕事を並べて大方を遣り残せば、悶絶するもあらんや。逆時計を設《しつらへ》えて思い詰めた仕事のあれこれを眺めて、いま、じっと考え込んでゐる。

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