おらが春

めでたさも中くらいなりおらが春、とか。一茶翁には済まないが、折角の名句、ここぞと私ごとに引き合いに出させていただく。それというのも、わが癌奴の蔓延(はびこ)り具合を探ったデータを解き明かす作業が、例のKクリニックであったからだ。今日のことだ。年末の針吹雪から十数日、癌奴がいると判ってからの日々は、大袈裟に言えば針のむしろ、手控えても蚊蜻蛉(カトンボ)の水面(みなも)渡りの思いだった。つまりは、心ここにあらずの心境。

それはそうだろう。病知らずの元気じるし、五臓六腑の患いには縁がなく、風邪も引くのが可笑しいとすら思い込んで、ましてや癌などは文字の薄気味悪さは知っていてもその実体には無頓着、いわんや自分がそれに冒されるなど毛ほども疑っていなかったのだから。

だから、癌奴に取り憑かれたと知ったときの動転振りは半端ではなかった。前立腺癌よ、いざ来たれ それと気づかずに苛立ち、些細なことに怯え、読書の文字が空転する、などなど。そんな心理状態で迎えた今日、裁判なら判決の日だから、昔なら首を洗っての心境で病院へ向かった。前回は舐めてかかって、囲碁なら後手を打って足元を掬われた記憶から、今日は先手のつもりで最悪を読みつつM医師に向き合った。

流石は医師である。患者心理を弁(わきま)えてか、のっけから搦め手を打ってきた。「島村さん、大きな臓器には転移はありませんでした」。肝臓、腎臓、肺臓など五臓六腑は無傷だという。その瞬間、体内の血流がにわかに一方方向に整い、後頭部辺りのコリがふっと消えた。M医師は、あの日「十針中七針で癌組織が…」と聞いたときのわたしの動転振りを知っていたに違いない。先ずは口当たりのよい処を食わせておこう、と。

わたしは見事に術中に嵌った。命を脅かす転移はなさそうだ、ならば時間を掛けて癌奴を抑えればいい、あわよくば摘出して…。「これで箱根の関所は越えた、あとは心して旅を続ければよし、と。」わたしはM医師の説明を片耳で聞きながら、これでいい正月になると心中ほくそ笑んでいたのだ。

ところが、家内曰く、M医師は臓器にはないが骨への転移の気配がある、という。たしかにCTとは別に骨への転移を診る検査を同時にしていた。どうやら腰骨に二カ所、右上腕骨に一カ所、転移と思しき白点が見えるという。悲しや門外漢、骨に転移という概念が分かり難い。癌奴、骨に入って何をしようというのか?聞けば、癌に罹った骨は膨らんで痛むという。これに腰骨が冒されると半端な痛みではないという。ほくそ笑む気持ちは萎えた。

話を端折(はしょ)ると、三つほどの治療のどれを執るか、それぞれの利点不利点の詳細な説明を受けて、わたしはわが身のことだから、とセカンドオピニオンを求めたいと申し出た。M医師は快諾して、わが庵からさほど遠くない県立がんセンターへの紹介状を用意すると約束してくれた。家内は、押っ取り刀、手際よく即日センターへの予約を入れてくれた。

月末の三十日、わたしはKクリニックの紹介状を携えてがんセンターへ赴く。さて、いかなる経過を辿って癌奴を征伐する旅に向かうことになるのか、わたしには傘寿を越えて初めてのチャレンジである。取りあえず命は安堵したものの、道は平坦ではない。これは初春の椿事、曰く、

めでたさも 中くらいなり おらが春 (一茶翁)

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