氷川丸だ(13)

教壇の仕事がなくなって、わたしの時間は渡米一色に染まった。アメリカ史を拾い読み、アメリカ文学の流れを追った。それでどうだというのではない、アメリカ漬けになることが、緊張感を和らげる唯一の方法だった。英語に親しむという言い訳で、アメリカ映画を軒並み見て歩いた。金がない身、数をこなして見まくる訳にはいかぬ。当時は入れ替えがなく、一本を三、四回見たのだから、英語慣れするには賢かったかもしれない。それで英語が聞こえるようになったかといえば、これもまたどうだというほどではなかったろう。だが、それが渡米前のぴりぴりした神経を宥(なだ)める効果はあっただろうと思う。

「氷川丸ですよ」
須田さんから電話をもらった。船が決まったから上京してくれという。アメリカ行きの船が氷川丸に決まった、という。そうか決まったか。電話を切ってわたしは戦慄した。不甲斐ないがわたしはその瞬間失
禁したのだ。お漏らしである。あれから六十年余り、人並みの緊張感は随所で味わったが失禁したことはない。氷川丸に決まったと知らされた瞬間が、どれほどの心理的な刺激だったかが思い出されて、なんとも愛しい。日をおかずわたしは上京、もちろん有り金叩いて持参している。苦労した金だ。これでアメリカへ船旅をするんだ、と子供じみた感慨がどっと迫った。

東京駅から丸の内の須田さんの事務所まで、わたしは空を踏む思いだった。こういう船だと須田さんは氷川丸の写真を見せてくれた。そうか、これで行くのか。わたしはこの船の歴史を話してくれる須田さんの言葉を上の空で聞いた。そうか、この船か、これに乗るんだ、そうか。この船が三度の魚雷を免れた幸運の船だということ、船名が地元大宮の氷川神社にちなむこと、ブリッジの神棚に祭神として祭られていることなどなど、この船の素性は乗船してから船旅の徒然に知ったことだ。

できない相談
氷川丸に決まってホッとしたわたしは、遡ってあの切なかった船探しの「徒労」を思い出して、思わず込み上げるものがあった。それというのも、今にして思えばあり得ない相談を持ちかけては袖にされていたのだった。それは、こういうことである。

あれは、資金作りの流れで思いついた「作戦」だった。相談を持ちかけた相手は船会社、それも日本郵船から山下汽船、Kラインなど錚々たる船会社でノルウエーだったかの外国船もあった。ノルウエーはのちに20年間も勤めて、年金ももらうようになる北欧の国で、なんとも縁は異なものだ。「働きながらアメリカへ行きたい。荷物と一緒に寝かせてもらえればいい。船賃は船で働きながら返す。なんとか口はないか」という、なんとも能天気な相談だった。ただ、わたしは結構大真面目に掛け合ったのだから、若気とはなんと動的なものか。思えばメ○ラヘビに怖じずとはよく言ったものだ。

ある船会社では、答えに窮した係員が、とても筋肉質とは言えないわたしを頭からつま先まで目で舐めながら、粉袋も運べまい、足手纏いだなどと、手痛く扱ってわたしを門前払いした。片や、資格や年齢制限を理由に挙げながら、わたしの相談がいかに暴挙であるかを、暗に諭す船会社もあった。できない相談に答えはなかった。作戦は失敗し、わたしは地道な金作りに戻り、船のことは須田さんにお任せしたのだった。

さて、二百八十五ドル相当の円を払って切符を受け取った。須田さんは目を腫らしてわたしのそれまでの苦労をねぎらい先の幸運を願ってくれた。わたしはあなたなしではここまで来られなかった、と言葉一杯の感謝を伝えた。それが須田さんとの最後の語らいだった。生活と学業に追われて、わたしは在米中須田さんに一本の便りも書けなかった。帰国してからは時の流れのなかに、わたしは須田さんを忘れ去っていた。日々に疎しというとは誰の言葉か、すでに世にはおられまい須田さんを八十翁にして思い出してなんになるものか。懐かしも苦渋に満ちた思い出である。

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