万年筆がなくなった!(16)

四方に海、絶え間なく吹く海風に薄まったか、さしもの煙突の吐き出す重油の匂いが気にならなくなった。船酔いの免疫がつくや、俄然、食事を待ち侘びるようになった。現金なものだ。これまで数日、飴と水で抑え込まれていた食欲がむくむくと湧いてきた。

ハタチそこそこの若者だ。空腹は死ぬより辛い。気を紛らせようと、空きっ腹を抱えて、煙の風上を選んではデッキを徘徊したものだ。三等船室の乗客にはたいした楽しみはない。エンジン周りの様子を覗き見るか、鳥など飛んではいぬかと遠目を馳せてはため息をつくのがせいぜいだ。

フラッグ画鋲
食堂(とはいえ、上等クラスの華やかな「食堂」ではない、アメリカの学寮でいうchow hallめいたもの)の入り口近くには、広告板が一面しつらえてあり、太平洋を示す地図、いや海図が張り出されていた。地図上には氷川丸の横浜からシアトルまで航路を辿る線が引かれ、線上に日ごとに船の位置を示す旗付きの画鋲が刺される。その画鋲の位置を確かめては、今日はここ明日はこの辺りと航跡を追うのだが、これがなかなか楽しいのだ。画鋲の動きを確かめることが結構な楽しみになるのだから、船旅の無聊(ぶりょう)は推して知るべしである。

三等船室
船室は三等、Third Class CabinがABと二つあり、わたしは後部のBでデッキから何段か階段を下った狭い部屋だ。幅二メートル奥行き四メートルほどか、二段ベッドが上下二台、都合四人部屋である。通路には名ばかりの縁台もどきの長椅子が一脚あってベッドでなければこの長椅子が憩いの場所。とても長居はできないからデッキを徘徊するということになる。わたしは数冊の本とノートを枕脇に積んで、部屋にいるときはベッドに上がって読書や書き物をした。

平野さん
同室の船客にカナダへ帰る日系の牧師がいた。たしか平野さんといったか、詰襟の上着をまとういかにも牧師然とした紳士で、わたしの事情を知って何くれとなく相手になってくれた。食い物のことや買い物の仕来りなど、上陸したらすぐ役立ちそうな知識を詰め込んでくれた。アメリカの抱える人種的な問題や日系人たちの悩みなど、わたしはあの三等船室で平野さんから多くを教えられた。

人種差別の実態など書物からの知識のみだったから、そんなものか程度の感覚だったが、後にロサンジェルスで日系の青年たちからその種の悩みを肌で感じた時、平野さんに聞いた話が生々しく思い出されることになるのである。

万年筆
ほかの同室者の記憶はまったくない。ただ、敢えて消したい記憶が一つあるのだ。一本の万年筆、茶系の斑ら模様の万年筆だが、この万年筆が紛失したのだ。これは、その万年筆事件の顛末である。

高校時代に拾い買いして読んでいた雑誌に「蛍雪時代」というのがあった。月並みな受験雑誌なのだが、わたしは英語の特集記事を好んで読み、懸賞企画でエッセイ書きに応募していた。ある号で一編が当選して、わたしは一本の万年筆をもらった。賞品も嬉しいが自作が選ばれた充実感が得難い喜びだった。わたしはこの万年筆にある種の生体感を覚え、ことさら愛おしく、書きものに愛用していたのだった。

あの万年筆が紛失した時に、ベッドの隙間に落ちてはいないか、どこかにおき忘れてはいないか、誰かに貸した覚えは、などと思い巡らしたのだが、ついぞ分からなかった。窮すればなんとやら、ふとある記憶が浮かんだ。ある日、同室の一人に「君、偉い勉強家だね。いつも読むか書くかしているね。」と話しかけられて、何気なく受け答えしていた記憶が蘇ったのだ。

根拠のない疑いはいけない。いけないのだが、切羽詰まったわたしには万年筆はあの人が盗ったに違いない、と思い込むようになった。濡れ衣かもしれないが、そうとしか思えなかったのだ。当人に聞けばいいのだが、諍(いさか)うのは目に見えていた。これからの大事を前に、わたしは事を荒立てることを避けた。平野さんに相談もできたろうが、それもしなかった。門出に不吉な雲を広げたくなかった、そんな気持ちからわたしは万年筆事件を忘れようとした。そして同室の人たちのことも意図的に忘れてしまったのである。

あの万年筆のことは折々にふと思い出す。それほどに懐かしい万年筆だ。いまも色合いこそ違うが茶系の斑ら模様の万年筆を選んで使っている。

記憶
横浜からシアトルまで二十日前後の船旅、あれはわたしにはまさに嵐の前の静けさだった。それというのも、シアトルに着いてからソルトレークのユタ大学で、芝生の上で友人に思い出話をするまで十年ほどの間、あの船旅の記憶は消えてなくなっていたのだから。「嵐」は想像を越えるものだったのである。

舷側から見下ろす北太平洋の海は、後年見ることになるハワイの海のコバルトブルーとは、これでも同じ海かと思わせるほどにどす黒かった。

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