前立腺癌よ、いざ来たれ

身内の話は「ないしょばなし」で、およそ他人様にさらけ出して語るのは無粋としたものだ。まして、身の内つまり手前の体がどうこうという話しは語っても「ひそひそばなし」、そもそも他人様に分かるものでもなし、分かってもどうしてもらえる訳でもない。だから黙して語らぬに如くなし、と悟り澄ましていた。人間、思えばなんと弱い生きものか。ほんの数刻前、私はそのことを肌身で知ったのである。

その分かるものではない話しを、いま、お話しする羽目になったからだ。

それは、今日のこと。かねて済ませておいた前立腺生検の結果説明を受けようと、予約に違えずK医療センターに出向いた。部位が部位だけにいらぬ神経を病みつつ上辺(うわべ)は気丈に、内心は事なかれかしと二本指を重ねながら、M医師の説明を待った。要点を端折(はしょ)ると、同医師の説明はこうだった。十針中七針で癌組織が摘出された、転移の範囲を見るCTとシンジグラフィーなる放射線検査を予定したい、その結果で治療方法を組み上げたい、云々。

私は、「十針中七針で癌組織が…」辺りでM医師の声がふっと遠のいた。遠のいたまま、彼の口元の動きだけが記憶にある。吉凶とはいえじつは凶は意識から押し退けていたのだ。吉と出て今日は軽やかに帰れるとさえ予想していたところの十針中七針だから堪らない、私はM医師の口の動きとモニター上の数値を交互に見ながら、努めて心の動揺を押し隠した。だから、十針中七針から先の話は付き添いの妻から後刻聞いて知った。

動揺するとは、何たる不覚。

あれこれの段取りは付き添いの妻が承知したらしく、「では、そのようにしましょう。では、年明けに…」とのM医師の声を背中に診察室を出る。「癌が身の内に見つかった」。その現実に私は内心大いに狼狽えた。途端に襲い掛かった虚脱感が身の内に浸潤、瞬く間に末梢神経が痙攣する。気丈が売りの身がなんという為体(ていたらく)、そう戒めながら、帰路、私は妻の慰め言葉に気のない相槌を打った。

癌宣告から数時間、すでに午前零時を過ぎて締まりのない時間が流れている。体力をつけよと言われて、ルームサイクルに跨がり漕ぎながら、十針中七針がふと浮かぶ。それではならじと子規の蕪村話に読み耽ろうとすれば、数行であのモニターが、そこに散らばった数字類が目にちらつく。淡々としたM医師の声、もぐもぐと動く口元、こつこつと過ぎる時間。そんなこんなが、ものごとに集中しようとする神経を逆なでする。

この瞬間、癌奴(め)は私の身の内に鎮座してわがもの顔にふんぞり返っている。その現実を認めることの惨めさは、何に例えようか。下(お)りものなら掴み出して捨てればよい、張り付いた異物なら剥ぎ取って踏みにじればよかろうが、わが身に巣くった癌奴には脅しも効かず、誘(おび)き出す手立ても甲斐なし。ただ、究極の我慢を強いられるのみ。

せめてもの救いは、癌奴がわが五臓六腑に蔓延(はびこ)るのではなく、直ちに命を脅しはせぬ部位に止まっていることか。訊けば前立腺癌は進行が遅く、対策もあれこれあるとか。ならば、ここは居座る癌奴をまずは見て見ぬ振りをして、これぞとの手立てを案出するに如くはない。

さりながら、老いてこの災難はきつい。身罷るまでに仕上げることが多々あるのだから、ここは精神一到何ごとか、とか。自前の気力と聖観音の念力を縄に綯(な)って、この壁を押し倒し乗り越えるのみ。前立腺癌よ、いざ来たれ。まずはそう念じて今夜の眠りに在り付こうかと思う。

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