熱中症の話

酷暑が続いている。熱中症は怖いぞ、日向(ひなた)に出るな、怪しいと思ったら医者に飛んでいけ、などなど、メディアを挙げて手取り足取り世話を焼く。それはそうだろう、それで死ぬ人が出るほどだから用心を呼び掛けるのは当然で用心するに越したことはない。だが、実際に熱中症に罹ったらメディアを責められない。責めるなら自分だし、自分の日頃の不注意をこそ責めねばならない。いま、日本人の自己管理能力が萎えている。大人の世話焼きがたたって子供のそれが衰えている。これは大きな社会現象で社会性免疫欠陥症とでもいうべき疾病だ。

熱中症は昔もあった。霍乱(かくらん)とも暑気あたりともいって、誰に教わるでもなく夏になれば身構えたものじゃ。どうやら暑気あたりも様変わりしたようで、水分がどうの塩分をどうしろのと、指図されずともそれぞれ対処しておった。帽子を賢く使う機転も何も褒めるほどのことはなかったものじゃ。それもあってか、昔は霍乱で死んだという話はなかった。つまり、日頃の生活に暑さ対策があれこれと組み込まれていた。

情報網が広く深く、人の生活に編み込まれてきたこともあろうか、どうやら与えられる情報に頼ってわれわれは自発的に手立てを考える習慣をなくしているようだ。「手取り足取り」が「いらぬ世話」にさえ思えるように、情報が溢れ返って人の自助意識を萎えさせ、勢い怠惰にさえしている。

帽子の話にしても、昨日今日の猛暑では豊かな黒髪の温度は屋外で51℃にもなるという。昔は、というと懐古趣味と取られかねぬが、夏の帽子は暑さ対策のいろはだった。折々の水撒きヘチマの棚なども常識だった。子供たちがそう教えられて日々実践していた。大人の知恵が子供に実地で授けられていた。じじばばから父母へ、そして子供へと生活の知恵が伝承されていた。この実地でというのが鍵で、TVなどのないころはそれが日常で効果的だった。河童やお化けを介して、してはならぬことを教えられたものだ。

それが今はどうだ。
情報の氾濫は大人ばかりではない。子供たちもテレビのモニターや活字から『知恵』は授かるがどれも無機的な情報で、多くは身につかない。それに輪を掛けて、過ぎたる過保護の風潮が子供たちの自主性を奪っている。怪我をするからと肥後の守(折りたたみ式ナイフ)を取り上げられて、子供たちは鉛筆も削れない。削り器があるからの言い訳は意味がない。『削る』という作業は鉛筆に限らず生活に欠かせない技だからだ。指先を怪我してでも、『怪我をせぬ知恵』を身に付けるべきだ。

サバイバルという訓練がある。ゲーム化もされて緊急事態の対処法を学ばせている。避難訓練なども同根のものだ。どちらも訓練であって日常性はない。災害意識とは、より広範で基本的な感覚だ。体中で『常時備えている』という姿勢の話で、それこそが人間力の脊髄的な役割を果たす『心棒』だ。

そう、私の見るところ昨今の日本人はその心棒の欠落に気づいていない。こと災害意識に限らず、平和呆けが昂じた小児的な国際感覚然り、いまや存在理由を失った野党らの『なんでも反対』の河原乞食芝居を傍観している政治意識また然りだ。だが、天災は万遍なく降り注ぐ。情報がどれほど溢れようとも、人の自意識が働かなければすべて塵だ。せめて天災に立ち向かうに、日本人此処にありの気概を見せられないものか。

先ほど流れたニュースで、どこかの体育館で25人の生徒が熱中症で倒れたという。犬だって25匹が同時に倒れるなどはない。唖然として言葉がない。人の知恵は何処へ行った?

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