恐るべき教科書の山(32)

9月だったことは確かなのだが、あの日が何曜日だったか、天気がどうだったかなどは、とんと忘却している。新入生に混じって講堂auditorium に並んだあの入学式の日だ。1956年7月にシアトルに着いて以来、ひたすら窓ふき床掃除で過ごした2ヶ月足らずの日々が、半年も続いたかと錯覚するほど時間の感覚を失っていた私だから、あの日の記憶が薄いのは当然なのだ。トムを通してのささやかなアメリカ体験はあるにしろ、なお切実な言葉の心配と、見るもの聞くものが矢鱈に新奇な環境に慣れきらぬ不安感のくすぶる中での入学式だった。正直なところ書物に向かう気持ちも未(いま)だし、私は大いに慌てたのを覚えている。

そうか、今日から大学生活が始まるのか、との興奮と、気懸かりが相半ばする心理がなんとも不思議だった。気懸かりは何と言っても言葉だ。逃げも隠れもできぬ英語一辺倒の環境をどう切り抜けるか、という切実な問題だ。考えあぐねても詮ないこと、ままよ、なるようになれ。

さてその入学式だが、これが日本のそれとはまったく別種のものだった。麗々しい式次第があるわけではなく、チェイフィー学長の話と事務的な報告だけの簡素な行事だった。学長の話は、挨拶と歓迎の辞をこき混ぜた和やかなものだった。ゆったりとした語り口が聞き取りやすく、すでにお会いしていて身近に感じることもあって、半ば聞き取れたような気がした。ここぞと聞き耳を立てていたからかもしれないが、チェイフィー先生の英語がほどほどに判ったことで、私は奇態に安心感を覚えたのである。

話しの中で先生は、今年は外国の学生も入って来た云々と国際性を誇る場面があった。いまでも背筋が凍るのだが、あの時、自分の関係で日本からも来ているなどと私に話しを振り、なにか云えとでもいわれたら何としようという懸念が湧いて、ドキッとしたのを記憶している。幸いそんな事態にならずに式は済んだのだが、もし話しの流れでひとこと言えるほどの英語力とささやかな勇気があったら、と今更ながら残念に思うのだ。

式のあと、事務報告のなかに教科書の支給についての指示があった。事務棟の地下にTextbook Store があること、そこには新刊中古の教科書があり、コースに応じて各自確保するようにとのことだった。早速に行って見たが、店は学生が主体的に動かしており、事実上中古ばかりの教科書交換所とでもいう場所だった。初年度のものを次年度のものと引き替える方式で、初年度になにがしかの費用を払って必要な教科書を手に入れ、次年度にはそれを返してその年度の教科書を無償で手に入れる仕掛けだ。初年の涙銭だけで教科書代は事実上ゼロ、学生には大いに助かるシステムだった。

私は国語つまり英語の教科書と人文の資料集でリングの掛かったもの、心理学入門、物理、フランス語、それに音楽理論の教科書を手に入れて寄宿舎に持ち帰った。積み上げれば50センチにもなる教科書の山だ。それでなくても言葉の懸念が去らない折、私にはこの教科書の山が脅威だった。恐怖ですらあったのである。

ジードの作品を「田園交響楽」という映画で見た印象からだと思うのだが、英語の苦労を知りつつフランス語も取る気になったのは、われながらいい度胸だったと思う。ただしフランス語の知識は後年さして役立っていない。一方「音楽理論」とはいえ、あの時《音楽》に目が向いたことがきっかけで、後の私の進路に激震が走ろうとは、毛ほども気づいていなかった。

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