お花見と筍

私が通っている病院の近くに馬場がある。その馬場の東隣に一郭の花見の里がある。花見の名所は数多く見知っているが、鄙には稀な見事な桜花の海だ.

前立腺癌の放射線治療をしようと決めて、私は伊奈町の埼玉県立がんセンターに通い始めて某日、付添の妻と私は道すがら「桜まつり」の立て看板を見た。無線山の桜が見頃だという。道から眺めた桜はなるほどと思わせる咲きっぷりだが、深みは見えず、治療帰りに立ち寄ろうかほどのノリでセンターへ向かったのだった。

無線山と聞いて、私は小中学生頃に聞き慣れた小室のアンテナ塔を思い出した。子供心に滅法高い無線アンテナがこの辺りに立っていたのだ。もう昔からのもので、五輪ベルリン大会の「前畑がんばれ」が中継されたアンテナ塔だ。いまは塔そのものはなく跡に馬場と桜が残ったのだ。

その日の治療を受けながら、私はかつての小室のアンテナ塔を思い浮かべ、名残の桜はどんなだろうかと想像しながら、ふと時を忘れた。

帰途、病院を出て花見の特別料金の三百円を払い仮設駐車場へ車を寄せる。病院からさして遠くないことに気づいた妻曰く、病院の駐車場に置いたまま来ればよかった。まあ花見だからと意味のない言い訳で納得、早速花見の列に並んでみて愕(おどろ)いた。

見事な桜が枝垂れに並ぶこと百米余、所沢の航空記念公園の広さにこそ後れを取るが目黒川の風情には数倍優る桜の海が続いているではないか。これは目の供養だとばかり九分咲きの桜を愛でて並木を逍遙する。

桜ならわが庵にも一本あるが、何の因果か枝垂れる枝もなく幹ばかりが太く花は天空に固まってごく僅か。思えばここの桜は心ある職人が手塩に掛けて育てたもの、到底比べるべくもなし。そもそも枝垂れるには土地がないわが庵は、所詮は桜には気の毒ながら場所柄ではない。

桜並木の果てから東へ曰くありげな遊歩道が続いている。私は自前の歩調で左右を眺めながらの十数分、とそこにこれも見事な竹林が広がる。健脚の妻はさくさくとこれも自前の早足であらぬ方向へ歩み去る。

私は竹林を散策しながら考えた。これほどの竹林なら筍泥棒も居ろうに大らかなものよと見れば、やや奥に表札一葉あって曰く筍無断で盗るべからず。さもありなん、これほどの竹林ならさぞや立派な筍が生え揃うだろう。少なからず心貧しい連中が闇に手探りに来ようと要らぬ心配をすること暫し、脇から早歩きの妻が現れて曰く何と立派な竹屑よ。筍には気づかぬらしい。

かくて思わぬ花見を愉しみ、さぞやの筍を彷彿させる竹林の風情を味わった。味も素っ気もない癌治療が俄に色づいた希有な一日だった。

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