「一年で何ができるの、君?」(12)

さて、あの日の記憶は漠として定かではない。やや前方の視界が開けて前のめりになっていたわたしは、足元の様子が眼中になかった。だから、あの日の出来事で今でも鮮明に記憶しているのはただ一点、ある大蔵省の審査官とやらが放った唐突な一言だ:「一年で何ができるの、君?」

あの日、わたしは大蔵省のとある場所に出向いた。外貨申請の手続きである。平たく言えば、母校の教師をして貯めた金をドルに換えるために、大仰な作業があったのだ。朝鮮動乱は経ても外貨はなお溢れてはいなかった。申請にはなおきつい縛りがあった頃だった。

そこにはすでに大勢の申請者が群れており、一人ひとり呼び込まれている様子は、いまでも何かの映像を見ているように思い出す。ほどなく順番が来て、わたしは呼び込まれて数人のパネルの前に座った。質問が矢継ぎ早に飛んでくる。なぜ、どうして、どれほどの額をなどなど基礎的なデータを確認した後、ある審査官が不作法にこう聞いてきた。
「そもそも一年で何をしようとするの?何ができるの?」
 じつは、留学期間を指定すれば通りやすいとのは須田さんの知恵で、わたしは留学期間を一年としていた。

なぜ一年か、と問われてわたしは、努力して実績を上げ自力で勉学を深めたい云々と心づもりを述べたのだが、この審査官は無駄なことをするなという意味を繰り返した。わたしはここを先途と、日頃の熱意を伝えるべく言葉を尽くした。可否を知らされぬまま席を立った。「まずったか!」、わたしの目の前に暗い幕が落ちるような気がした。ままよと達観を装い、わたしは憮然として大蔵省を後にした。

「島村さん、やりましたね。これで大きな壁は貫通した。どう、トンネルの向こうが見えるでしょう」
。大蔵省からドルが割り当てられたといち早く知らせたとき、須田さんは電話の向こうで喜んでくれた。審査現場の冷たい雰囲気から可否は五分五分と思っていたにしては、割り当て認可の連絡はごくさらっとしていた。役所仕事とはこんなものかと、拍子の抜ける感じがしたものだ。

須田さんは段取りとして旅券をとること、査証をもらうこと、船の予約をすることを着々とするようにとアドバイスをくれた。
 旅券を手にしたときの実感はひとことで新鮮だった。なにせ初めてのこと、写っている自分の写真がどことなくバタ臭かった。顔つきじゃなく打ち込まれた名前や住所などが横文字だらけだったからだろう。これを持つ人間をよろしく頼む云々の意味の添え書きが真新しかった。

これをもってわたしは勇んでアメリカ大使館へ急いだ。マイヤーさんは満面笑顔で迎えてくれた。わたしの旅券をぱらぱらっと開けて手のひらにぱちっと打ち付けた。これでよしという風情である。机上のブザーを押すと部下の担当官が入ってきた。即刻処理するようにと指示するとわたしに向かってこういってくれた。
 「これでいうことなしですよ、島村さん。よくこぎ着けましたね」
 査証というものをわたしはなにか証書のようなものだと思っていたのだが、実は旅券のあるページに押された判子ひとつだと後で知った。拍子外れだった。いまでこそなんのことはないのだが、あのときはこんな判子のために大騒ぎをしたことが不思議な位だったが、所詮は世間を知らぬ若者の思い過ごしだった。

その後の須田さんの働きはめざましかった。査証付きの旅券を受け取るや、自分は直ちに船の予約に走るからと、わたしに聖路加病院で天然痘の予防注射を済ますように、身の回りに必要なものをそろえて頑丈なスーツケースに詰めるように、さらに別れの会などは済ませておくように、などなどと矢継ぎ早に指示をしてくれた。いま、手元にその聖路加病院の天然痘予防注射の証明書がある。「一九五五年五月十二日」の日付のキムラ医師の署名に現実感がある。

聖路加を済ませ、同僚の教職員には挨拶程度、狭い自宅に招いての一席を設けて、本田校長や臼田先生それに中学時代の受け持ち馬橋先生に渡米の報告をし、諸々のお礼ごころを述べた。
「大変なことだ、頑張って体に気をつけて」云々、励ましの言葉を上の空で聴きながら、わたしはひとりひしひしと迫る言いしれぬ緊張感に煩悶した。

好きで始めたことだ、だれに零すこともできない。もう戻れないという切迫感はいま思い出しても鳥肌が立つ。マイヤーさんが優しげでチェイフィー博士が親切だとはいえ終戦からまだ十年だ。これは覚悟せねばならぬ、わたしは本気でそう思ったのだ。

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