バッハに出会ふの記(55)

信じては貰えなからうが、私には途方も無い幼時記憶がある。幼時がさてどれほどの時期を示唆するかは知らぬが、私の記憶に残るもっとも古いものに、仄かな乳の匂ひと子守唄がある。その匂ひには心安らぐ温かみがあり、子守唄にはねんねんころりよ風の音律がラルゴで流れる。どちらかと云ふなら子守唄が表で乳の匂いはそれに絡んで感じられる、と云ふのが正しいかも知れぬ。

その、ほぼ消えかかってゐる体験からだらうか、私は何時からか音に敏感だ。音楽に関わることなく少年期を過ごし、留学したいま勉強の対象に音楽が浮かぶとは思ってもいなかったから、縁あってかうしてブロット先生を知り音楽の世界に誘われてその気になりながら、その意外感と戸惑いは半端ではなく、潜んでいた音感が俄に目覚めるかの錯覚さえ覚えた。

そもそも留学を実現させた裏には、大戦の結末に自分ながらの決着をつけやうとの思ひが濃密にあったから、現実に何をどう学ぶかについて確たる方針めいたものはなかった。漠然と文学かなとは感じていたが、何のテーマも固まってはいなかった。だから、事前にアメリカ文学史を浚《さら》ひ、アメリカ史の概要を呑み込んで彼の地を踏んではいたものの何の目途もなく、要は目先は漠とした状態だったのだ。

あの「パイプオルガン事件」から一瀉千里、音楽をやってみやうと決心するまでの寸時の出来事は、一見素っ頓狂《すっとんきやう》に見えてごく自然な展開だったのかも知れない。いまにして思へば、あの乳の匂ひの子守唄が具象化しただけのことのやうだ。ブロット先生の音楽話のいちいちが生の子守唄に聞こへたし、先生の音をめぐる譬え話が私の音感にはぴりぴりと響いて、なるほど、音たちはそんな具合に共生するものかと目から鱗だった。

先生のバッハ話は私にはじんと沁みた。出会いから先生はバッハ、バッハで、それまで偉そうな鬘《かつら》の音楽家のイメージしかなかったバッハが俄かに動き出し賑やかに語り始めた印象だった。音の組み合わせの妙、それをharmony と呼ぶのだと、組み合はさった音たちがある原理で絡み合ふのだと、その全体像がこれこれこんな姿で纏まるのだと、私は先生のバッハ話を大いに感じ入って聴きながら、若気の至り、よし一丁これをやって見やうと心に決めたのである。

入り口として Theory & Composition と云ふ単元を提案された。バロック時代(とは云えバッハに終始するのだが)の音楽を座標に西洋音楽の原点を学ぶと云ふ科目だ、と。原点と云はれてぐっと興が沸ゐた。私はほぼ咄嗟にそれに反応、即座に先生の講義に登録した。後になって振り返れば、確かにさうだった。専門的には無知の身が西洋音楽のルーツを垣間見た比類の経験だった。

本稿から暫くは、ブロット先生の最初の授業を遥かな記憶を搔き起して再現して見やうと思ふ。細かな所は勝手な記憶だが、大筋ではほぼこんな流れだった。

オードトリアムの南側、玄関を入ると右手に階段がある。これをL字に上がると右手にドア、開けると教室だ。二十畳ほどの真四角な部屋で西側のドアの向ふにもう一間あってこれがブロット先生の執務室になってゐる。教室の右手奥の壁に五線譜を確か五段ほど引いた黒板があり、中央寄りに据へられたグランドピアノを囲んで片机付きの椅子がある。十数脚ある机は何の規則もなく乱雑に置かれて、一見だらしなく見えたのは私の咄嗟の印象だった。

その日、十人弱の生徒がピアノを囲んだ。それぞれに五線紙のルーズリーフに一冊のA3サイズの教科書を抱えてゐる。BACH RIEMENSCHENEIDER と云ふ書名で、副題に 371 Harmonized Chorales and 69 Chorale Melodies (G. Shirmer, Inc.) と矢鱈長い。内容はバッハのコラールを 371 篇に、低音を添えたコラール旋律69 個を後半に集めたアルバムだ。価格は何と四ドル弱、時代を感じさせる品物。この後半部分のコラール旋律が Theory & Composition の教科書であり、それから一年間ブロット先生がそれを駆使して繰り広げたバッハ講座のネタになったのだが、その日、どうなることかと椅子に身構えた私には知る由もなかった。

十分ほどして、奥の部屋からブロット先生が出て来られた。(つづく)

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  1. 2022年 6月 12日
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