ミューズに誘はれて(54)

就学して一年足らず、目の高さほどだった言葉の壁が腰から膝へ低まり、私の英語力は俄に有機的になった。日常生活は言わずもがな、何の講座であれ聞き取りメモ取りに苦労しない。浦高でのしゃかりきの励みが実を結んだ実感は何とも新鮮だった。

言葉の壁が無きに等しくなると、当然学業の目的を特定する事に意識が働き出してゐた矢先、あの日のパイプオルガンとの出会ひは晴天の霹靂(へきれき)、いやそんな手垢のついた言葉では表現出来かねる衝撃だった。オルガンを知らぬではなかったが、それは手ならぬ小学校の足踏み風琴、雷鳴さながらのパイプオルガンの音は常軌を逸してゐた。

その日は後日を約して別れ、私は三日ほど後にオーディトリウム(講堂)の二階、ブロット先生の教室を訪れた。挨拶もそこそこに、私は音楽への思ひは並々ならぬものの、専門的に向き合ったことがなく、興味と懸念が綯(な)い交(ま)ぜである心情を打ち明けた。先生はグレゴリア音楽から十六世紀の声楽、バッハからハイドン、モーツアルトと西洋音楽の歴史を語られ、ご自身はバッハを以って音楽の原点と信ずると力説された。

Dr. C.Griffith Bratt

やるなら音楽理論と作曲だろう、と先生。セバスチアン・バッハを学べば西洋音楽が分かる、と先生はご自分の講座のあらましを説明された。じっと聞きながら、音楽には聴く弾く前に作る世界があることを悟る。出来上がった旋律の良し悪し、好き嫌いは受け手の感覚、それは充分に弁(わきま)えていながら、音楽を紡き出すことなど考えても見なかった私だったが、不思議と先生の話のいちいちが腑に落ちた。さうか、音を紡ぐとは言葉を綴るにさも似たり、なるほど作曲とはさう云ふことか、と私は素直に納得した。作曲と云ふ言葉が新鮮な響きで脳裏に沁みた。繰り返すが、音楽とは聴くもので作るなどは思ひも寄らなかった私は、いま何か真新しい境地が目の前に広がるのを感じて快い戦慄を覚えた。

しきりに頷く私に先生はかう言われた。

You know, Yasu, having good food is super ; but fixing good food is extra super.”

音楽を食い物に例える語感にはたじろいだが、音楽は聴くばかりが能じゃない、作ってなんぼだと云ふ先生の語威に夙(つと)に動かされた。空の五線譜が眼に浮かび、髪を毟(むし)るベートーベンの顔が重なる。音符で思ひを表現する芸が作曲なら、その要(かなめ)は言葉なら語感に中る音感の有無だらう。その音感、われに有りや無しや。そんな私の懸念を見透かすように先生は重ねてかうも言はれた。

”There’s nothing mythical about music; it’s all about logic and theory. You don’t have to be a Mozart to compose.”

モーツアルトでなくても作曲はできる、音楽は論理と方法論の世界で神秘性などない、と。才能は確かにあらうが、それは努力と表裏一体で有無を問ふのは愚かしい、とも。一徹な私は意を決した。ひとつ音楽とやらをやってみやうじゃないか、と。

あの日のパイプオルガンの衝撃で、瓢箪からとんだ駒が生まれた。懸案だった学業目途が漠たる「言語・文学」から音楽に、それも理論と作曲に決まったのだ。サブにピアノも取り入れて音楽専科の一助とし、持てる僅かな時間の按配に天と地の違ひが出ることになったである。

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