語彙はいらない

講釈と云へば侍や出世話で、筆者の少年時代は講談社の講談全集がバイブルだった。この会社は元の名を大日本雄弁会講談社といって、弁論に拘る書きものを出版してをったのだが、その延長上に講談本も多く出してをった。中でも十二巻の講談全集という凄ものがあって、世の講談好きにはこれを全部揃へるのが夢だった。

筆者の家は無念にして貧乏で、勉強の本も思ふ様には買へず講談全集など及びも付かなかった。が、窮すれば通ずとは嘘ではない、Nと云ふ学友が「それなら家にある」と云ふではないか。十二巻みんなかと問へばさうだと云ふ。しめたと思った。Nは家が竿屋だから金周りがよかった。竹竿が専門で、まだプラスチックの竿がなかった頃だから、手造りの竹竿が引く手数多(あまた)だったのだ。

講談全集全十二巻

結論を云へば、筆者は半年も掛からずに十二巻をすべて読破したのだ。読破などと、勉強にもならぬ講談全集を読み切っても自慢になるまいと云われるなら、それは大きな間違ひだ。良からぬことは勉強の時間を相当取られたことと近視が進んだことだが、それを埋め合わせる大きな収穫があった。猛烈な量の語彙と使い勝手を覚えたのだ。

かう云えば、敏感な読者は本稿の題、「語彙はいらない」と云ふ言ひ回しが気になるだらう。いらない、とは確かに話が食ひ違ってをる。実はそのところが本稿のミソで、本稿はここから本題に入る。

時間を無駄にし近眼をさらに悪化させた代償に「猛烈な量の語彙を覚えた」と書きながら、「(語彙の)使ひ勝手」も覚えたとも書いた。その意味を敷衍すれば、言葉が使われた状況も同時に覚えた、と云ふことだ。講談本だから侍世界の日常が多く語られ、現代には合わない側面もあるにせよ、諸々(もろもろ)のシチュエイションで交わされる言葉(語彙)の素性が話しの展開で察せられる。筋の面白さに惹かれて読み進みながら、奇態な漢字やら大仰(おおぎょう)な四字熟語を状況に絡めて覚える。講談本はすべての漢字に平仮名のルビが振ってあった。常用漢字の枠を大きく越えた量の漢字を面白可笑しく覚えた。語彙だけを無味乾燥に覚えたわけではなかった。そこがミソだ。

さて、本稿の題「語彙はいらない」の本意を解かねばなるまい。この題名は何処か間が抜けてゐる。実はその通りで、「読書から得ない限り」と云ふ前提が抜けてゐるのだ。もっと平たく云へば、「語彙は読書から得よ」と云ふこと。これは頗(すこぶ)る大切な智慧で、只々語彙を集めるのではなく、何かの物語に織り込まれた筋に沿って吐かれた語彙を拾ふことで、その意味がすんなり理解され記憶されるもの、漢字検定などは愚の骨頂だ。英語なら、子供向けにToby and BilboなどOxfordで格好な物語シリーズを出してをる。あれを只管(ひたすら)読み続けさせればいい。

これは和英どちらでも同じことだ。無理して哲学書めいたものを辞書を引き引き読むことはない。面白い物語を選んで読むがいい。推理小説でも連続ものでも、筋を追ひたくなるやうな物語を読むがいい。奇妙なもので、さうして覚えた語彙は忘れやうがない。言葉を見聞きするたびに、その物語を思ひ出し語られた状況を懐かしむ。これは言葉の遊びではない。筆者が八十六歳の今日、日本語を自由に操り何の苦労もなく英語を読み聞き書いてをる裏に、さうして身に付いた語彙が八割は下るまい。

語彙は苔のやうに増え、雪のように積もるものだ。財にして然り、黙々と働く者には累々(るいるい)として貯まるもの、以て瞑(めい)すべし。

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